(119)【1】捕縛(2)
(2)
「は? 何だって?」
「今、母が――あの術は……」
マナは動揺している。
自覚もあるようで、右手を胸元に当てて落ち着こうとしている。彼女は一呼吸置いて口を開いた。
「奇潜の術です……失われた古代ルーン魔術の一つ」
「……古代ルーンかよ……」
アルフィードはまたかと思いながら呟いた。 自分がわからなかったのは当然だったのか――という相変わらずの腹立たしさと奇妙な安堵に肩を小さくすくめる。
しかし、アルフィードはマナの驚き方がそれだけに留まっていないような気がした。
「どうした?」
マナはごくりと唾を飲み込んでから顔を上げ、アルフィードを見た。
「奇潜の術は、肉体、精神ともにとても負担のかかる術です。自在に使いこなせでもしない限り、命の危険が……失敗をすれば人は確実に死ぬ術です」
マナは曖昧な言い方を避けて続ける。
「ですから、習得している者は古代ですらほとんど居なかったのです。私も今初めて見ました」
ユリシスは「あ……」と声を上げそうになって、なんとか音だけを喉の奥に閉じ込めた。
自分は、奇潜の術を知っている気がする。
ゼクスがアルフィードとユリシスの前から姿を消した時、その術は使われていなかったか。
そうして思い出す事がある。
ギルバート救出に登った塔で自分は似た術を使わなかったか。
気を失ったアルフィードを元々居た牢屋に戻す為、闇に道を開いた。あれは地の精霊に助力を願った術。
奇潜より危険度はぐっと低く、失敗しても押し返されるだけでダメージの無い術ではある。だが、ユリシスはえらいこっちゃと冷や汗を感じていた。
ユリシスが使った術も、奇潜も、エリュミスまでわずかな時間で行って戻った“彼女”の使った地穴という術も、すべて地の精霊の力で土地を圧縮して道を通している。
ユリシスも“彼女”も道、空間を作っている。その道を通って望みの場所へ出る。が、奇潜だけは大地に術者の体を通してしまう。失敗すれば体がばらばらになる。リスクは大きいが、移動時間は一瞬。追われる心配が一切無い。
「へぇ~……」
命の危険もあるという古代ルーンの術を使ったという事は、ゼクスも、マナの母たる王妃も、やはり相当な魔術師という事になる。
アルフィードは舌なめずりをこらえた。
悔しさもあるが、自分も体得したいと欲が勝ったからだ。
一度でも失敗したら死ぬ――など、ととんでもない術であるところが実に古代ルーン魔術らしい。一体どうやって習得するものなのか、疑問に思った。
術に対する好奇心が膨れるばかりのアルフィードの様子に、マナは表情を硬くして下を向いた。
「母は……病にふせっておいでのはず……なのに……以前から習得なさってらっしゃったとしても、健康な状態であったとしても負担の大きな術…………なぜ……どうして……」
戸惑いを隠し切れないマナにアルフィードは静かな声で告げる。
「それどころじゃないみたいだぜ、今は」
ずずんっと地を鳴らして獣が降り立ち、一歩を踏み出した。
狼によく似た獣の体格は少なくとも馬の三倍はある。人にとってはその大きさだけでも十分脅威だ。
獣の長すぎない青白い毛は柔らかく、吹いてもいない風にゆらりと揺れる。魔力波動がうねる。
薄く開いてぶるぶると揺れる顎。口角がぐわりと広がって歯がむき出しになる。
目は白目が少なく紫紺色の瞳が鋭い眼光でこちらを睨み据える。低いうなり声が響く。敵意しか存在しない。
獣の呼気とともに舌が半周して涎が飛び散った。首が揺れれば顎よりも長くはみ出た巨大な牙は一層前へせり出してくるようだ。
さらに一歩前へ出た前足の爪が床石を割る。
威嚇の吠え声は耳に膜を張ってくるような重低音。
「うっ」
何かに圧迫されたような気がしてユリシスは喉を閉じた。まだ、空気さえ震えている。服ごしながら皮膚がちりちりとざわめく。
強烈な殺意が押しつけられてきて、ユリシスは眉をしかめて耐えた。
「……」
一方、マナの目は落ち着きを取り戻す。
「わかりました。ゲド、彼らと協力します」
「――御意」
それまで黙ってマナの隣に控えていた忍びが低い声で返事をした。
「いいのか」
アルフィードはマナを見た。
全身を青白い毛に覆われた獣は、魔力に満ちている。王妃に何らかの魔術を与えられている可能性も無くはないが、考え難い。魔術師四、五人分の魔力波動が獣の内側には感じられる。後付けで付与出来る力とは思えない。獣自身の持つ魔力であり、すなわち何らかの術を使う可能性が高い。
通常、ただの獣が魔術を使う事はあり得ない。アルフィードは、今、目の前に居る“敵”が伝説級の神獣や神聖精霊の宿る何かだと推測している。
人間には考えつかない、到底及びもしない力を持つ存在、現象に“神”という称号は与えられる。そいつとの戦闘はどうにも避けられそうにない。
戦力は多いに超した事は無いので手を組めればありがたいと思った。
アルフィードの言葉は手を組む事についてだけで出たのではない。実際のところ、“ここ”へ侵入した件、忍び達との戦闘とこれから獣を追い払うのに魔術を使う事を見逃して欲しいという思いがあったのだ。
「あの獣も……おそらく古の……。古代メルギゾーク最後の女王陛下の手によって多くのものが破壊され、封じられたはずなのですが……強大な力を持つものは、今の私達にはほとんど残されなかったはずなのです……それが目の前に居るなんて……」
「……」
「母の意図がわからない限り、私たちはあの獣を退けなければなりません」
マナは静かに獣を見る。母の残した獣は自分にも殺気を放っている。
「――当然、生きるために」
ユリシスはマナの声を聞きながら気を引き締めた。
人間相手ならまだしも、正体も定かではない獣と戦うのは危険が多い。どんな動きをどんな速度で、何の術を、どんな攻撃をしてくるのか。
情報が必要だ。相手について、獣について探る必要がある。そう考えて動きかけたユリシスの手が止まった。
魔術を使える事は知られてもいいのだろうか?
古代ルーン魔術はやはりまずいのだろうか?
考え始めると途端に挙動不審になって、結局何も出来なかった。
忍びとの戦いの時、アルフィードは見てればいいと言った。だが、甘えてばかりというのも、何だか妙に居づらい。
コンコココンッと軽い音が聞こえた。
顔を上げて音の方を見ればアルフィードの足元に石ころがいくつか転がっていた。手足や腰、あちこちにぶら下げていた紺呪石の力をいくつか解放したようだ。
アルフィードの体の隅々が切り替わっていく。戦闘となると、集中力、冷静さは研ぎ澄まされていく。
アルフィードを好む精霊が集まってくるせいか、氷のように冷たい空気が広がる。
準備を整え、アルフィードが言う。
「はかるぞ」
「言われるまでもない」
マナがゲドと呼んだ忍びは、言葉のイントネーションに若さを感じさせる。アルフィードとそう変わらない年齢と思われた。
マナを見ると既にルーンを描き始めている。白い指はしなやかに空を踊り、青白いルーン文字の光を生み出す。
アルフィードはちらりとマナの描いている術を確認すると、ゲドと目配せをして、こちらへ歩みを進める獣へと駆け出した。
ユリシスもマナの描く術を見る。
風の精霊に対して描いているようだが、ざっくり読むと攻撃をしかける為の術かもしれないとわかる。
どうにも、マナなりの配慮があるらしく、セキュリティ結界の術に影響を及ぼさない構成のルーンを選んでいるようだ。
ゲドに数歩遅れて飛び込むアルフィード、お得意の氷の術が手元に浮かんでおり、発動を待っている。
マナによって風が、アルフィードによって氷が準備されている。
ならばとユリシスは炎の術を描こうとした。
獣の頭の上へ軽く飛びぬけたゲドがその額に五、六本の短剣を投げつける。短剣は刺さった瞬間、小規模ながらゴンッゴンゴンッと鈍い音を立てて爆発し、獣の毛を焼いた。
大地の術を描いても石をぶつけたりとぶん殴っているのと大きく違わない。火の術を描こうとしていたユリシスの手が止まる。
ゲドはそのまま獣の背中へ着地すると、どこから出したものか、腕の長さほどの剣を振り上げた。
そのタイミングまでに、アルフィードはゲドに気をとられる獣の横っ腹へ回り込んだ。
氷の術を溜めた手を獣の腹に差し向ける。
周辺の気温が一気に下がって真っ白の水蒸気が吹き上がる。現れ出たのは人の腿よりも太い氷柱が十数本。先端は鋭く尖っている。
アルフィードの手から勢いよく飛び出した氷柱は獣の被毛を押しのけ、めり込んでいく。
ほぼ同時、ゲドの剣が獣の頭上に振り下ろされ、深々と突き刺さった。
瞬間、獣が身震いするように背中を丸め全身をぐるりとまわして暴れた。
勢い、ゲドは振り回され、剣からも手が離れ天井へ飛ばされる。
暴れる獣の足に蹴飛ばされたアルフィードは、あまりのスピードに避けきれず、受け身も取れないまま地面を滑る。
ユリシスは――ええいと迷いを払い――援護のつもりで慌てて大地の精霊に向けたルーンを描く。
ゲドは破壊された天井から一階上の部屋に着地していた。
怒りに目をつり上げた獣はアルフィードに顔を巡らせる。ぎりぎりとかみしめた牙の間から荒い息を吹き出すと一気に突進、巨大な爪を振り下ろす。アルフィードは痛みをこらえて立ち上がる最中で避けるどころではない。
ぶわりと大気が振動し、瞬時に形を変えて立ち上がる床。
倒れたアルフィードと獣の間にぶ厚い壁が生まれた。
獣の鋭い爪は、壁に深々と刺さり、抉り取って終わる。
瞬発力を最優先とした防護壁――ユリシスによる地の術はすぐにパラパラと砂になって崩れ落ちる。
アルフィードは経緯を確認せず急ぎ立ち上がり、そのまま獣の腹の下へ回り込む。再び氷柱を炸裂させた。
今度は魔力を十分に溜める時間が足りなかったのか氷柱は三本しか見えない。
衝撃でぼこんぼこんと揺れる獣の背に、ゲドが再び飛び乗った。
獣の首に突きたったままの剣を逆手に持ち、尾へと駆け抜ける。ゲドの背後では獣の被毛の波が割れた。
甲高い、がおんという声を上げて獣は頭を伏せた。
獣の腹は凍てつき、背は割られ……これで終わったかと思ってユリシスは目をこらす。が、獣は少しの出血もしていなかった。
ユリシスは改めて今までゲドとアルフィードが攻撃した辺りを全て見回し、息を飲んだ。
傷が、無い。
無傷。
修復したのか、とも思うがそんな魔力の流れは感じなかった。だが、傷は塞がっている。
脳裏にはっきりと耐性魔術の存在が閃く。
全身が魔力に覆われた獣は、実物なのか幻なのか怪しい。傷が出来たように見えただけだったのか。
物理的な斬る攻撃も、爆撃も炎も、氷も効かない――となると……。
ユリシスが思考する間にマナが描いていた風の術が解き放たれた。
魔力波動で空気が揺れ、気付いたアルフィードとゲドが一気に後退した。
大技がくる。
辺りの精霊が端から一斉にざわついてマナの描くルーンに飛びつく。
前後左右全周囲――足元から頭の上から、後ろから、音を立てて集まってくるような感覚。はっきりした大きな魔力波動。
ユリシスはごくりと唾を飲んだ。他人の大技は初めて見る。
集まった精霊がルーン文字――魔力を取り込む傍から変化していく。
獣よりも大きな風の塊が生まれ、それは砂埃を巻き上げながら高速移動する。室内にすっぽりと収まる竜巻が発生して一直線に獣へ走ったのだ。
竜巻はぶわりっと大きな風圧を辺りにまき散らし、術者として堪えるマナ以外のアルフィード、ゲド、ユリシスを仰け反らせた。
避ける暇すら与えず獣の前へ躍り出る竜巻――風の塊は、蕾が花びらを広げるような形で、瞬時に広がる。
轟音とともに吹き荒れる風は獣を威圧。そのままひるんだ獣を飲み込み、竜巻の内側に押し込めた。
砂埃が酷くてまともに目を開けていられないながらも、ユリシスはなんとか獣を睨む。見極めなければ――。
風の塊――竜巻の内側に飲み込まれた獣は、巨軀にも関わらず右に左、上へ下へと風に押され、外に飛び出る事も叶わず風の壁にゴンゴンとぶち当たる。
術によって制限された範囲であちらこちらへと振り回されている。滑稽な様にも見えるが、術者であるマナは眉をひそめ、首を横に振った。――効いていない、駄目だった……と。
竜巻の内側で吹きすさぶ風の刃が、ただの打撃のようにぶち当たっているだけ。真空の刃によって獣の四肢を切り裂く術のはずが、これではただ転がしているだけだ。
やがて風は次第に衰えて消えた。術の発動が終わり、精霊が散ったのだ。
どしんと獣は床に落ちた。毛並みはばさばさに荒れて見苦しい。だが、ゆっくりと立ち上がる間に魔力波動が獣の全身をめぐり、あっという間に美しい青い毛並みが戻った。
大技だったのだが、獣には傷がない。
風も致命傷どころかかすり傷さえ与えられなかった。
爆炎も、氷柱も、斬撃も風の刃も効かない。
ユリシスは右手を伸ばした。ぐっ、ぱっと、拳を作って開くという動作を二度して指をほぐす。
最後に試すのは、たった一つ。
獣に施された耐性魔術、防護魔術を剥がす、それしかない。
右の指先にぎゅっと魔力を集める。
魔術を制御できないんじゃないのかと言われていた。だが、やらなければ。今やらなければ。
獣を睨み、呼吸を整える。
集中はすぐに深まり、キンと澄んだ音が頭の中に響いた。
――ここは、精霊で溢れる場所。
魔力を集めて術の準備を始めるだけで、えさを求めて精霊がざわつき始める。
こういう意味だったのかとユリシスは改めて悟った。
大きな術を引こうとすると、一斉に精霊達が集まってくる。
精霊は術者の魔力を食らって力を貸してくれる。心強く頼もしい。
ユリシスは現代ルーン魔術で十分と判断して短く描く。獣に施されているであろう防護魔術のルーンを浮かび上がらせる術を一気に書ききった。
「剥がします! アル! ゲドさん! 援護おねがいします!」
声を張って告げるとユリシスは駆け出した。
ユリシスは一番遠く離れたところで見ていたのだが、参戦するには近付かなければならない。魔術は飛ばす事が出来るとはいえ、そのままではいくらなんでも距離がありすぎた。獣も俊敏、戦い慣れていないユリシスでは簡単には懐に入れさせてくれないと考えた。それで二人に声をかけたのだ。
唐突に剥がすと言ったものの、わかってもらえただろうか。それぞれがどれだけ状況を把握しているのか、この状態でははかりかねた。それでもユリシスは走り出した。
獣もユリシスに気付いて涎に濡れた牙をむき出しにしてこちらを向いた。顎を下げて唸っている。矢継ぎ早のこちらの攻撃に怒りは頂点に達しているらしい。
「ひぇ……」
ユリシスは高く小さな声で呟きながらも足は緩めなかった。
魔力を集めている間にユリシスが何かしようとしているという事には気付いてもらえていたようで、獣の近くに居たアルフィードと忍びのゲドが獣の注意を引くべく動き始める。
獣は身をかがめてユリシスへ狙いを定め、力強く突進をしかける。その濡れた鼻にゲドが飛び降りた。
素早く剣が舞う。ダメージは無いものの衝撃はあるらしく、獣は足を止め大きく顔を揺らす。振り落とそうとしているらしい。
ゲドは獣の顔面へ何本も短剣を投げつける。突き刺さった短剣の柄を足場として伸びてくる獣の腕を避ける。
短剣の柄を飛び移りながら態勢を整え、ゲドは獣の顔面、特に目を狙って斬りつけ続けた。
アルフィードは動かず、ルーンを描いている。
ユリシスは獣の正面をさけ、横っ腹に回り込む。
前足、後ろ足をバタバタともがいて暴れる獣。
走りながら、ユリシスは獣の足下に白い煙のようなものが浮いてきている事に気付いた。
次の瞬間、地面から氷がばきばきと音をたてて生えてきた。獣の足、腹の辺りまで氷は伸びた。
耳を覆いたくなるような氷の歪む音が響く。
「さっさとやれ!」
アルフィードの鋭い声が飛ぶ。
体の半分を氷り漬けにされて身動きの取れなくなった獣の左腹にユリシスは滑り込む。凍り付いた獣の腹にユリシスは腕を伸ばした。
「ゲド!」
カランと軽い音がして、剣が床に落ちたのだとわかった。悲鳴はマナのものだった。
視界の端に黒い布がはらりと落ちてくるのが見える。ユリシスは一瞬目を細めて踏みとどまる。今は術に集中しなくては。
ユリシスは伸ばした腕の先に魔術を解き放つ。
青白い光がユリシスの全身から溢れて帯状に伸びる。
ユリシスの内側から生まれた青白い魔力の光は精霊に飲まれて帯となってするすると獣の全身に巡る。獣をぐるぐる巻きに包む。
今、目も気も逸らせない。術が途中で解けてしまう。
血の臭いがする。ゲドはどうなったのか……。
しばらくの間、光の帯が辺りを一層明るくした。光の帯が獣の姿を確認させないほど包み込んだのだ。
術者の手を離れた術はめきめきと音をさせ獣を締め上げていく。獣の微かなうめき声が聞こえた。
残りは術に任せ、ユリシスはやっと振り返る。
血痕の道が出来ていた。
壁際まで道は続いており、先端にはゲドが横たわっていた。その傍らにマナが座っており、治癒術をかけている。
黒い布の取れたゲドの左足は肌の色が見えないほど血まみれだ。太もも辺りが大きく裂けているのが見えた。
ユリシスは獣に目線を戻した。
獣の口元には黒い生地の破片がぶら下がっている。牙が赤く濡れていた。
尻込みしそうになるのをユリシスは堪えた。 ユリシスの描いた魔術――獣に巻きついていた光の帯が次第にほどけていく。
周囲にはがれ落ちる帯。その裏側、獣に接していた面に青白い文字が反転して描かれている。獣にかけられていた耐性、防護魔術を文字通りひっぺがしたのだ。
ユリシスは唇を噛んだ。古代ルーン魔術で組んでおけば間合いはもっと広くても撃てていた。ゲドに怪我をさせずに済んだはずだ。
今にもアルフィードの氷の魔術は解けそうだったがユリシスは獣の真横を退かなかった。そこで一気に魔力を練り上げる。
ユリシスはキュッと唇を結んだ。
――手なんて、抜いてられる状況じゃなかったんだ。
ユリシスは胸の奥ではっきり呟くと、身体の中心から魔力を放出する。激流のように周囲に集う精霊らにルーン文字を描いてみせた。溢れる力を一気にまとめて術として編み上げてゆく。
描いているのはもちろん古代ルーンの魔術。
すぐアルフィードの『おい!』という魔力の声が飛んできた。古代ルーン魔術の使い手である事がマナにバレてしまう事を言っているのだろう。だが、ユリシスの返事は答えにならない。
『ごめん! もう一度こいつ、氷で縛って!』
一番前で獣の動きを封じていた忍び、ゲドが負傷した。
遠目にも酷い出血だ……重症なのはよく見なくたってわかる。マナが治癒にあたっているが、それで戦力は大幅ダウン。アルフィードとユリシスの二人になった。
『魔術耐性、防護魔術は解いたから、あとは攻撃ぶち込むだけ!』
ユリシスが声を飛ばすと、アルフィードからは一瞬の躊躇いの後、魔力の流れが見えた。
何か言いたげではあったがルーンを描き始めてくれた。
獣の耐性を無効にさえすれば後はゲドやアルフィードに攻撃してもらえば良いと思っていた。が、状況はそれを許さない。
ユリシスは下唇を舐め、緩く噛んだ。
自分が撃つしかない。