(116)【4】王妃の微笑(3)
アルフィードの腕が勢いよく伸びて忍びの腹へ鋭く打ち込まれる。
忍びは両手それぞれに構えた二本の棒でアルフィードの腕を払った。が、息つく暇も無く、アルフィードの反対の拳がまた伸びてきている。
忍びはふんばり、二本の棒を回転させてアルフィードにつきだした。向かって上から下から横から、迷い無く俊敏に繰り出す。
迎え撃つアルフィードも避けたり払ったり叩き落としたりと一切ひるまない。
忍びの反撃に勢いを消される事なく、アルフィードは突き進む。
静かだったこの地下に、両者の足運びの音と息づかいが低く響く。
ユリシスはただ息を飲んで見守る。割って入れる速さではない。目で追うのもやっとだ。
忍びはじりじりと押されつつ、間合いを取り直そうというのか大きく後ろへ退いた。
ほんの一瞬、忍びの両手が開いたわずかな隙にアルフィードは術を発動させる。
――次の瞬間、鮮血が放射状に広がった。
中心は忍びの腹。背中から腹へ、厚みがほとんど無いつららが、半透明の鋭い刃が大小複数本突き抜けていた。
血塗れたつららから白い蒸気が音を立てて舞い上がる。
忍びの手から武器が床へ落ち……音がする前に、二つ目の黒い影が現れる。
二人目の黒い忍びがユリシスの横を駆け抜けた。あっと思う間もなく、こちらに背を向けているアルフィードに襲いかかる。
慌てたユリシスは防護の魔術をアルフィードの背中へ飛ばす。精霊の力を借りる暇はない、魔力そのものを使う。
「アル!」
二人目の忍びの攻撃――短刀はユリシスの魔力の塊にはじき飛ばされた。短刀が床に転がるよりも早く、瞬発力重視で打ち込まれた盾代わりの魔力、青白い光は大気に溶けた。
気配に反応して、アルフィードは確認もそこそこに魔力を指先に集める。横っ腹に魔術の青い記述を引きつつ振り向いた。既に術は発動している。
黒装束の忍びもまた敏《 さと》い。床にびたっと伏せてアルフィードの術をかわす。つららの刃をやり過ごして、立ち上がりざまには右ひじでアルフィードの顎を突き上げている。
アルフィードのつららの魔術は上向きに出現した後、ただ床へ落ちて折れた。
位置指定を省いた術はその場で発動する。対魔術師の訓練を積む忍びはそのルールを知った上で迷い無く避けた。
忍びにとって、魔術師が瞬発力を要求される場面で発動した魔術は読みやすく避けやすい。
アルフィードは少し膝を崩しながら後ろへ下がった。表情は歪んでいる。
急所である喉への直撃は避けたものの、顎をかすめた。忍びの打撃は強力だった。顎先に鈍い痛みが残った。
忍びの体術は地上最強を謳い、故に忍びは太古から魔術師の天敵として名を馳せている。
相手が忍びとあっては、いかな戦闘型のアルフィードでも張り付かれてはかなわない。
逃がさんとばかりに大きく詰め寄る黒い忍び。
歯に届いた衝撃が不快で顎を撫ぜつつ下がるアルフィード。
一人目の忍びが倒れる場所から血の臭いが漂う。
今度はアルフィードが押される側となっている。一撃が強力な者同士の対決は一瞬で決まる事がある。
追う忍びと追われるアルフィードは駆けつつ距離をはかる。
瞬間的に室内の一角で魔力が膨れ、緊迫した両者の間に壁のような闇の幕がばさり垂れた。
忍びはかかとをずらして前進を止めた――一瞬のためらい……その隙にアルフィードはさらに大きく退いた。
微かな余裕が生まれ、アルフィードはチラリとユリシスを見る。
今の闇の幕はアルフィードの術ではない。
ユリシスの魔術だ。ただの目隠しにすぎないが、十分だった。
舌なめずりをしてアルフィードは気を引き締めた。
姿勢を正してから再び構え直す黒装束の忍び。
アルフィードもまた体勢を整える。
――こいつ……一人目の忍びとは動きが違う。
一撃をもらいかけたが、アルフィードの魔力は揺らいでいない。
闇の幕が消える前からアルフィードの内側では魔力が練られ始めているが、術を描かせまいと忍びが再び詰め寄る。
二人が近接戦闘に入ると、ユリシスは何も出来ない。
援護の術でも下手をすればアルフィードに当たってしまう。身体強化の術を自分に施して間に入ろうとしても、立ち回りが全くわからない。
一般人や格闘をかじっている程度の戦闘になら撃ち込めたかもしれないが、目の前に居るのは戦闘のプロ達だ。動きを読んでも次の瞬間には既にそこに居ない上、戦闘経験の浅いユリシスの読みははずれる事の方が多い。
忍びの動きが想像以上にトリッキーだというせいもある。それを見切り、僅かな隙に術に拳に蹴りにと繰り出して肉弾戦を続けるアルフィード。手の出しようがない。
そうなってくると、ユリシスはずっと先の手として、規模の大きな術を用意しておく方が良いのではないかと考え始めた。
条件として、この場がセキュリティ結界の内側であるという事。結界に傷を付けると警備に繋がっていた場合、侵入が発覚してしまう事から、威力を抑えるなり結界対策を施した術にする必要がある。
よしっと気合を入れて右腕を肩から持ち上げた時、その腕を何者かに掴まれた。
「え」
振り向けば黒装束の忍びが立っていた。
アルフィードと交戦中の忍びはちゃんとあちらに居る。――これは三人目だ。
戦っていた二人が動きを止めてこちらを見た。
「え、え、え、え」
三人目は無言のままユリシスの腕を引きずる。
一体、いつ忍びは現れて自分の後ろを取ったのか、全く気付かなかった。
振りほどこうとするがびくともしない。ユリシスは慣れない左手で文字を描こうとする。が、その腕も取られる。
結局、バンザイに近い格好になっている。
ユリシスは後悔した。身体強化の術をかけておけばよかったと。
だが、この状況を打開したのはユリシスでもアルフィードでも無かった。
アルフィードと交戦をしていた忍びが、どこに仕込んでいたのか、短刀を抜いてユリシスを捕らえる忍びに飛びかかる。
ユリシスはごみのようにぺいっと横に投げ捨てられてしまった。
三人目の忍びは、短刀を手甲で弾いた。
ふと、ユリシスとアルフィードの目があった。
アルフィードがちらりと忍び二人を見る。ユリシスもその視線を追った。
既に黒い忍び二人の激突は始まっている。
今、戦っているのは、黒装束の忍び同士――。
『……王と王女の忍びってとこか? 対立してるってワケだな』
アルフィードの魔力の声がユリシスに飛んできた。
『ギルから聞いた話では、おっさんの方が王の、若い方が王女の忍び……らしいぜ。下っ端は別として。腕からしてあの二人がそれに該当しそうだ』
『えっ?』
『直下の忍びは一人二人じゃない。一定数以上の集団だ。群れには長が居る。現況、群れは二つある。王と王女に仕える忍びの集団が二つだ』
忍び二人の動きは年齢を感じさせない。
アルフィードの魔力の声を聞きながら、二人の黒装束の忍びをユリシスは見る。
おっさんとか若い方とか、判断がつかない。
アルフィードが忍びとぶつかっていた時以上の速度で両者は激突している。どちらも近接戦闘が主、当然だ。
ユリシスは眉間に皺を寄せて目をこらすが、同じ黒装束、どっちがどっちだかわからなくなってくる。
二人目の忍び、三人目の忍びとぎりぎり区別をつけて動きを目で追う。
そのうち、戦闘が長引いてくると三人目の忍びの方が押しているようにみえてくる。
『ねぇ、これ、今のうちに逃げられない?』
ユリシスは九割以上を目に注力しつつ、アルフィードに魔力の声を飛ばした。
『逃げられないな。今、あの二人は俺らの取り合いをしてるってとこだろ。俺らが逃げるならあの二人は揃ってかかってくるぞ』
『うぇ……』
『そもそも、逃げるっつー発想自体、俺は好きじゃない。ま、必要なら逃げるが』
今、必要ではないのだろうか――。
黙ったユリシスの心の内を見透かすようにアルフィードの声は届いた。
『潰しあってくれてんだ、邪魔する事はねぇだろ。俺らは勝って体力を消耗したヤツとだけやりゃあいい』
ユリシスは何度か瞬きして「……うん」と頷いたのだった。
そこは、衣擦れの音すら響くほど静まりかえっていた。
妖しげな香が白い湯気を伴ってゆらゆらと揺れている。
だだっぴろく、白い部屋の真ん中で――。
天井全体がほんのりと青白い光を放っている……柔らかさのない魔術の光り。
部屋の四隅の地べたには、直で足のついた陶器のつぼが置かれている。つぼの蓋には小さな穴がぽつぽつと開けられており、白い煙と共に木の香が立ち昇っている。
白い部屋の中央で、女は小さなナイフを床に落とした。がらんと、音が響いた。
ナイフを持っていなかった方の手の親指の腹に、一本の赤い筋が浮かび上がった。ぱっくりと開いた傷の上に、赤い血の玉が膨らむ。
女は、指の傷口を顔の前に持ち上げると、妖艶な舌を伸ばしてゆっくりと舐め上げた。
舌に染みる赤い液体を口の内頬にぬらぬらとこすりつけて女はその酸味を楽しんだ。
女は巨大な魔法陣の上に立っている。
魔法陣の輪郭は一辺が二十歩余りの巨大なひし形。
内側には大小さまざまな円が幾重にも交じりながら描かれている。隙間を縫うように文字がびっしりと刻まれており、その文字は青白くほのかに光っていた。魔力で描かれている事が一目でわかる。
だらりと下ろされた女の腕、その先の指からぽたぽたと、魔法陣の中央に数滴の血が落ちる。
魔法陣の傍に、これまた巨大な球体が浮いていた。
その青白い球体は、ピーン、ピピーンと軽やかな音を時折たててわずかに上下方向に揺れる。
球体の直径は成人男性の2倍程度。床にも天井にもすれすれだ。
女は純白のドレスを纏っていた。
装飾はシンプルながら、幾重にも生地が重ねてある、素材を重視したデザイン。
放っておくと、手は長すぎる袖に隠れてしまうし、足元もズルズルと裾を引き擦る。
ドレスの白さは不思議な光沢すらある。何らかの力が宿っているのかもしれない。床に擦っているのに汚れない。
女の動きは緩慢で、一層謎めいた妖しさを振りまく。
ゆったりと女は右腕を持ち上げる。
ドレスの白い生地がサラサラと流れ、これもまた色の白い指が姿を現す。
くっつけた人差し指と中指で天を指し、残りの指はゆるく握る。
二本の指先に青白い光が浮かぶ。
女は菱形の魔法陣の外周をゆっくりと歩きながら、ルーン文字を描いた。
一つにまとめていた二本の指を開き、文字を描く。離れた指先が文字を二行に分ける。 一度の動きで同じ術を二つ同時に編み上げる。
女の喉辺りから、時折音が漏れている。とても陽気なリズムが掠れながら……。
女の目は細められ、弓形に歪む。
閉じた口は尖ったり、口角がすぅっと持ち上がったりした。瞳はうっとりと潤む時がある。鼻歌には、時にコロコロとした笑い声が混ざった。
女はその作業を、巨大な魔法陣と膨大なルーンを描く魔術の記述を楽しげに行っていたのだ。
鼻歌は、飛び跳ねて踊りだしてしまいそうな感情を紛らわせている。魔術への集中が解けぬよう、考えたくて仕方の無い事から気を逸らせる。欲を必死でこらえているのだ。
自分を抑止出来る者は、もう居ないに等しい。
もし居るとすれば、憎々しい“あの存在”だけ。
でも、エリュミスから回収したこの膨大なエネルギーを使えば、きっと造作もない。
その事実を脳裏に浮かべただけでまた声を出して笑いそうになる。その度、女は鼻歌をうたう。
女が魔法陣の外周を一周した頃だった。
魔法陣の中央で、白い床に際立つ赤い血がポコリと泡立った。
その音を聞いて女はまた目を細め、満足そうに微笑んだ。
そして、二周目を描きはじめる。
もう少し、あと少しと、描き上げるその時をただただ楽しみして――……。