(106)【2】消えないもの(1)
(1)
アルフィードから離れて一人、都を旅立った。四十日近く歩き続け、メルギゾークの遺跡に辿り着いた。
なのに、帰りはなんてあっけない。
行きしなは、魔術制御の自信が無かった事と、どうしようもなく自分を痛めつけてしまいたかった事から徒歩の旅を選んだ。
快晴の空を飛びながら、ユリシスは今までの事を振り返っていた。
きっかけのエナ姫誘拐事件、アルフィードとの対決、国民公園の火災、自分が狙われていると知った事、ギルバートに魔術を使える事がバレて、それでも受け入れてもらえた日の事……。
──ギルバートが、死んでしまった日の事……。
こうして思い出に出来ているという事は、少しは傷が癒えたのだろうか。
一通り思い出してしまったが、ユリシスはまだ空にいた。
飛んでも飛んでも王都ヒルディアムの姿は見えず、日も完全に暮れてしまった。
方向は間違っていないはずだ。精霊の声を頼りに進路を補正しながらひたすら飛び続けた。
夜になったが、それほど寒くはなかった。
春を終えようとしていた頃、ギルバートとの日々──あの頃はこんな時間になると少し肌寒かったなぁと思い出す。
よくよく考えてみると、今日が何日か、正確にはわからなくなっている。
家へ帰ったら、一番にそれを確かめようとユリシスは心に決めた。
やっと、現実に帰ってきたのだ。
星も瞬く夜を何時間か飛び続け、都の光が見えてきた。
遠くから見ると、オルファース本部の屋根が辺りに放つ魔術の光はとても強く見えた。
灯りの少ない王都の外周、下町の上空を通り抜けた。さらに公園の上空を過ぎ、ユリシスは数時間ぶりに地上に降りた。
「……はぁ……」
さすがに疲れた。
制御が出来ていないと言われている。不安で全く気が抜けなかった。
ギルバートの邸の前に降りていたので、門扉までの数歩を歩いた。
少しふわふわする感覚が残っている。足にかかる重さに戸惑っているのかもしれない。
花壇の横の郵便受けを開けた。
封書が一通ある。取り出して扉へ向かいながら、思い出した。
ユリシスは足を止めた。
──思い出せないという事を、思い出した。
ギルバートが死に、埋葬した。
その後、ここへ帰ってきた記憶がない。
ぼんやりと思い出せる事があるとしたら、あの後、ユリシスは『きのこ亭』の以前の自室へと篭ったような気がする。それからは家に帰ったのかどうか……街中をフラフラとそぞろ歩いていたような気もする。
う~んと唸りながら、ユリシスは扉の左上のポーチライトへ魔術の記述を飛ばし、ポッと灯りを灯した。
旅立つ前、荷物は二階の窓から自室に飛び込んでかき集めた気がする。そして、そのまま窓から飛び出した。
──……その時、魔術を使っていた……なんて危うい事を……。
もし、それ以外に一度も帰って来ていないのだとしたら……──。
ギルバートが黒塗りの馬車に連れて行かれた日を思い出す。
陶器製の花瓶が割れて、玄関にはその欠片が散乱したままのはずだ。いや、もっと重要な点がある。
鍵を閉めずにユリシスは家を出た。
泥棒に入られている可能性は大きすぎた。ユリシスは慌ててドアノブに手をかけ……開かなかった。
ガチャガチャと繰り返し、押したり引いたりしたが、鍵が掛かっている。
「なんで……?」
ユリシスは荷物から鍵を引っ張り出し、解錠してドアを勢いよく開けた。
右手の壁にササッと魔術を描き、この邸の魔術照明を全て起こした。
パパッと二、三度ちらついて玄関が明るく照らされる。
「…………」
落ちたはずの花瓶は無く、散らかっていない。玄関は綺麗そのもの。
靴箱の上、元の位置には別の花瓶が飾られていて、花も添えられていた。
瞬きしつつもユリシスは後ろ手で扉を閉め、鍵をかけて室内へと進んだ。
まずリビングへ。
あまり広くないリビングの奥、ソファー……。
一瞬、ギルバートが座っているような、そんな幻を見た気がしてユリシスは頭を左右に振った。
ソファーの前、テーブルの上には何通もの封書が綺麗に束ねられて置いてある。束の手前に、メモ紙があった。
テーブルの横へ立ってメモ紙を手に取り、読んだ。
『ユリシスへ
私はいつでもあなたの味方よ。
お家の掃除とか、管理とかしか出来ないけれど。
出来る限りの事をしてあなたをお手伝いする。
ギルバートさんを手助けしてきたのと同じように。
帰ったら、いつでも構わないので声をかけてください。
ユーキ』
「……ユーキさん」
ユーキは大柄の女性で、ギルバートが居た頃からこの邸の手入れをしたり、かわいい雑貨をいくつも作って並べていた人だ。
「ユリシス!!」
「え?」
声に振り返ると、ユーキさんがリビングの入り口に立っていた。走ってきたのか息が荒い。
「ユーキさん……えっと、た、ただいま」
「もうっ……!」
そう言ってユーキはユリシスに駆け寄ってギュッと抱きしめた。背の高いユーキの胸に顔を押し付けられる形だった。
ほのかにミルクの香りがする。料理をしていたのか、夕食中だったのか……。
「心配したんだよ……!」
そう言って、ユリシスを離した。ユーキの頬が少し引きつっていた。泣きそうなのをこらえているように見えた。目はもう潤んでいる。
ユリシスは胸がとても温かくなってきて……照れ笑いをした。
「ごめんなさい」
ユリシスが言うと、ユーキは満面の笑みを浮かべた。
「無事だから、問題ない!」
帰って来た事を笑って迎えてくれる人が、居た。
ユーキが夕飯を用意してくれるというのでユリシスはそれに甘えた。正直、とてもお腹が空いていた。
ユリシスも横に立って手伝おうとしたが、テーブルの上の手紙に目を通すように言われてソファーへ戻った。
よく見ると封書が十通以上あった。
料理をしながら、ユーキはこれまでの経緯を簡単に話してくれた。
ギルバートが捕らわれ、アルフィードとユリシスが追いかけて行ったその日に、近所に住むユーキは開けっ放しの扉と荒れた玄関を見つけ、慌てて中を確認したという。その後、掃除を始めたそうだ。
ユーキはギルバートから鍵を預かっていたから、その日は鍵を閉めて自宅に戻ったそうだ。
それからはギルバートに報告をしようとして何日も通い、伝言メモを残したが全くつながらなかった……という事だ。
当然と言えば当然で、その頃にはもうギルバートはこの世の人ではなかった。
その内、いつものように掃除をしているところへ男女二人が訪ねて来た。その二人からギルバートの死を知らされたそうだ。
二人の内一人はユリシスに伝言を残したそうで、ユーキはテーブルの上の束から白い封書を引っ張りだした。表に「ユリシスへ」と宛名されている。
細く繊細で綺麗な文字だった。
郵便には日付と送料の領収のハンコが押されるのだが、それには無かった。手渡しだったからだろう。
『ユリシスへ
毎日、ギルバート様が安らかである事と、
貴女の無事を祈っています。
帰ってきたら連絡を下さい。待っています。
シャリー・ディア・ボーガルジュ』
「……シャリー……」
手紙がシャリーからなら、二人の内もう一人というのはネオだろうか。
一度材料を家に取りに戻ってからユーキが作ってくれた夕飯は、アツアツで、スパイスの効いたお肉のたっぷり入った濃いシチューと柔らかいクッキーのような丸いパンだった。
ユーキは手紙に目を通すユリシスに、それを中断させ、先こっちとシチュー皿を押しやった。
ふぅふぅ息を吹きかけて冷ましながらシチューを食べるユリシスを見守って、ユーキはそっと離れた。棚に飾ってあった自作の雑貨を弄りながらユーキは語った。
「ギルバートさん……って私が呼ぶのを、ギルバートは諦めて受け入れてくれてたんだ」
後姿を見せたままのユーキの声は、普段の明るく元気な彼女ではなく初めて聞くものだった。その背中をユリシスは見た。
「私もギルバートもまだ十代の頃だけど……。色々あって、私にとってもギルバートにとっても、凄く大切な、大切な友達を亡くしたの。その時すごく悲しくて、寂しくて切なくてどうにも止まらなくなって……──でもギルバートは凄くってね。そこから一気に魔術師の級を上げてったわ。性格もちょっと変わったみたいだった。昔は、無表情でとってもひにくれてたんだから。親御さんともすっごく仲が悪くて……だから、親を尊敬してるアルフィードの事をアイツは無茶だが偉いって、感心してたっけ」
ユーキは懐かしそうに微笑んだ。
「それからは、ギルバートが魔術師として昇格していくのを私はひたすら応援して、手伝ったのよ。彼が駆け上がっていく事が、死んでしまった彼女が生きられなかった分をあわせた、二人分の命みたいに感じたから」
ユーキはくるっと振り返った。ユリシスは手を止めてじっとみていたから、自然と目があった。
ユーキはニコッと笑った。
「──なんて、昔話はどうでもいっか」
ユリシスはスプーンを皿に置いて「聞きたい」と言った。
ユーキは目を細めた。
「ユリシスは、なんだか子犬みたいに人を吸い寄せるね。一生懸命だからかな? その、私達が失った大切な友達と、そういうトコ少し似てるのかも。彼女は足が悪くて家を出られない子だったけど……酷い親に閉じ込められてたけど、明るくて健気だったよ。その友達をね、ギルバートは“守れなかった”とずっと悔いていたの。それで、ギルバートがあなたを連れてきた時は私、ピンときたわ。ギルバートは必ずあなたを守るって。ユリシスがどういう事情なのかは、私知らないけど、その友達の時も知らなかったけど、ギルバートは十何年って悔いていたから、きっと命を懸けるんだろうなぁって……」
「…………」
「それで、その通りになっちゃったのかな?」
悲しそうに、目に涙をためたままユーキは微笑んだ。
「よかったね、ギルバートって私は褒めてあげたいの」
ユーキはそっとまなじりの涙を人差し指で拭った。
「ユリシスが無事だから、本当に良かったねって。そしてね、私は、私に出来る限りだけども、あなたの手助けをさせてほしいの。これは、私のわがまま。いいかな?」
ユリシスは小さく頷いた。断る事なんて出来ないというだけでなく、ありがたいばかりの申し出だ。
──大切な友達という人を亡くして、ユーキさんもずっと引きずっているものがあるのだろう……。ギルバートを“さん”付けで呼んで距離を作ったのも、きっと色々あったのだろう。
ユリシスはギルバートへ思いを馳せた。
「私がギルの願いを……叶えられた?」
うんと満面の笑みで答えるユーキに、ユリシスはほっとした。
笑みの形に細められたユーキの目からは溜められていた涙が溢れた。
──ギルは、誰かの為に生きる人だった。
笑みを交し合って、ユリシスはへへっと笑った。
ギルバートもユーキも、喜んでくれている。
でも、切なくて、胸も痛くて──眉を寄せてしまいそうになる思いを、ユリシスは笑顔で隠した。……隠し事ぐらい、ちゃんと出来る、慣れてる。
「…………」
そして、ユリシスは気まずげに開けた封書の内一つをユーキに手渡した。分厚い封書だった。
「ええっと……よくわかんなかったんだけど、何枚も契約書が入ってて……これ、何かしないといけない? 締め切り、明日? なんだけど……」
封の中身にサッと目を通したユーキの顔が一瞬で青冷めた。
「……ユリシス、あなたお金ある?」
「……あんまり……」
むしろ無い。
「契約更新と名義変更手数料の合計で、五十七万エイクいるって書いてるよ」
「エッ……?」
ユリシスは凍り付いてぶつぶつと呟く。
「年間の予備校授業料が三万エイクだったから……その……え? 何倍? え? 私今まで九回払ってきたけど……え? え??」
「明日までに五十七万かぁ……旦那が魔術師と言っても五級だからね、庶民のうちじゃすぐに用意できる金額って……十万エイクとかそこら辺が限界だ……」
「ユーキさん、どうしよう。この封書の束、ほとんどそんな書類に見えるんだけど。ギルって何してたのかなぁ……」
ユリシスは頭を抱え込んだ。
帰ってきた現実がこれとは……──先ほどとは質の違う切なさに胸が締め付けられる。
う~ん……と唸りながらユリシスが束を開封して書類に目を通していく。ユーキも怖い顔をしてぱらぱらと書類をめくっている。
「──おっ。ユリシス! 大丈夫みたいだよ!」
「え?」
「この内の三通はノースウェルからだから、安心していいよ」
「ノースウェル?」
「ギルバートの友人の一人かな。私も知ってる人だけどね。税金関係の仕事をしてたと思ったんだけど、ギルバートの資産運用とかもやってたはずだよ。この辺の書類見ると、ギルバートは遺書を彼に渡してたみたい」
「え?」
「これを読むと、遺産相続の手続きをするから事務所を訪ねて来るようにって書いてある。これ、宛名ユリシスになってたのね」
「え」
慌ててユリシスはその手紙の封筒を見た。
全部ギルバートに宛てたものだと思っていた。それに、相続とか税金とか契約とか違約金がどうとか、今まで全く関わった事のない単語だらけで、結局お金がいるのかなんなのかサッパリわからず、パニックになっていた。
「ギルバートは……結婚してないから実子はいないし……両親とはすっぱり縁を切ってたから、ユリシスが全部受け継ぐんじゃないの?」
「……そんな」
「ちなみにこの五十七万ってのもノースウェルが処理してるんじゃないかな。あとこっちのノースウェルからの確認の手紙だけど……寄付の話だね。必ずってわけじゃぁないけど、払う? 遺産があるなら。ギルバートが払うと約束していたみたいね、このエルバフィス孤児院に寄付金を」
「寄付金?」
「差出人、院長先生みたい。この孤児院私知ってるもの。中身は簡潔に書いてあるから、ユリシスにはわからなかったかな」
顎に手を当てユリシスは少しだけ考え、顔を上げる。
「ユーキさん、ギルの遺産ってどのぐらいあるのかな?」
ギルバートの遺産はユーキにもわからないという事から、ノースウェルの事務所へ行った方がいいという結論に達した。
ノースウェルからの手紙にはいくつか書類を持って来るようにと書いてあった。
その書類は役所で作ってもらわないといけないものもあるそうだ。役所で作ってもらう為に必要な証明書を、ギルバートの書斎から探さなければならないという事になった。
ユーキはギルバートとの約束で、この邸のどこを弄っても掃除しても構わないが、書斎だけは入るなと言われていたらしい。
だから、書斎だけ散らかっていたのかとユリシスは納得をした。
必要な書類、証明書は邸の他の何処にもない事から、全て書斎にあるはずだとユーキは言った。
ユリシスは食事を終えると「後は自分でやる」と告げ、ユーキには帰ってもらった。話を聞いているとユーキには同じ年の旦那さんと五歳と二歳の子供がいる事を聞いたから。
玄関先でユーキを見送って、ユリシスは散らかった書斎に入った。
奥の窓、その手前の木の机──。
ギルバートはその辺りでしゃがみ込んだり、重ねた本の上に座ったりしていた。
ユリシスはふぅと小さく溜息をついた。
自分自身に対して「しょうがないな」という溜め息だ。
軽く腕まくりをして、ユリシスは散乱した本をちゃんと本棚に戻していく事から始める。大きな本を右手で拾い上げ、左手に数冊重ねていっては本棚にしまうという作業を繰り返した。
オルファースの図書館で一般公開されている本の大半を読みつくしていたユリシスですら知らないものばかりだった。九割以上、題名すら見たことがない。
「こんなの……どこから手に入れてたんだろう……」
せっせと作業を進めながら、明日の朝までに必要書類を見つけて、午前中に役所に行って、午後にはノースウェルという人の事務所を訪ねないといけないなとユリシスは考え……──。
「……あ」
ゼクスの事を思い出した。ギルバートの部屋の時計を見ると、深夜零時をまわっていた……。