(010)【3】少女の見る夢(2)
(2)
典雅な天井画を眺め、何かの物語の一部なのかな、と思う。決まってこういう壁画は、何らかの、まだ文字を知らなかった人類が使った伝承法だ。言葉を覚えても人類はその伝承法を止めることは無く、芸術にまで高めた。
ユリシスは枕にしていた腕の片方を引っ張り出して、天井を指さしながら呟いた。
「あそこに天使が居て、周りに居るのは、魔術師? よね? 魔術師の周りが青白く描いてあるし。青白い光って魔力よね……チャクラ術とか、気とかも……だっけ……? 天使?? ホントに天使? そもそも天使って、何だっけ……」
国教はヒルド国誕生よりも前からあるゼヴィテクス教で、ゼヴィテクスを唯一の神とし、その手足として人々を導いた存在を天使と呼んだ。天使の姿は、伝承によれば、ヒルド国の前身たる古代魔術大国メルギゾークの時代にその高度な魔術で翼を得ていた当時の上級魔術師らを、模して描くようになったと言われている。
「──……神様は……いないのかな……」
絵には、天使と思しき人によく似た翼持つ存在が数十名と、それらを囲む魔術師、さらにきらびやかな衣服を身に纏う貴族、ぼろを着た庶民らしき人々まで、描かれていた。だが、唯一の存在というものは、見当たらなかった。ユリシスはすぐに諦めて、持ち上げていた腕をぱたりと床に落として再び枕にした。
いつもならば、知識の探求に、魔術を知る為にと本を開くユリシスだったが、今日はのんびりと過ごす事に決めてしまっている。
頭の中を空っぽにしたい。
俗に言う『サボりたい』気分というものだと、ユリシスには自覚があった。
「なんじゃっ!? 明かりが点いておるではないか??」
唐突の声にユリシスは驚いて飛び起きた。
ユリシスが入った洞窟とは逆側から聞こえたその声は、幼い子供のものだった。
「しかも、人が……! おぬしかっ!? ここに明かりを灯したのはっ!」
上半身を起こし、体を後ろへ捻りつつユリシスは立ち上がる。
声の主、六歳か七歳だろうか、ズルズルと長すぎるドレスの裾を引きずり、女の子はユリシスに近づいて来てきりりと見上げてきた。
「あ……えと……」
まさか、人が来るとは思っていなかった。
ユリシスが入った洞窟側は、部屋の一部が決壊して洞窟に繋がって出来た穴で、この部屋の出入口はそこしかないと思っていたからだ。この女の子が来た方向に、扉らしい扉は無い。壁にしか見えない。もしかしたら隠し扉でもあるのかもしれない。
──そうすると、隠し部屋……。
この部屋は、本来どことも繋がっていなかった。よくよく考れば、他に入り口が無ければおかしな話だ、この空間もどこかの一部であると考えるべきだったのだ。
何にしろ、ユリシスは見つかってしまったのである。自分がここに居た事も、おそらくここの明かりを点けた事も……だが、相手は子供、どうにかごまかせないかとユリシスは知恵を絞る。
「いえ、その、あっちの、えっと、あの、洞窟の方から入って来たんだけど、そしたら、あ、明かりが見えて、近寄ってみたら、その、この部屋があって……! だから! 明かりは私が来た時には既に点いてたの!!」
「……? 何を怒鳴っておるのか……」
見事に失敗を果たし、子供にはきょとんとした顔をされてしまう。
──そうだ、こんな子供相手に何必死になってるんだろう。
ユリシスははっとして自分の靴が視界の中心に来る程、下を向いた。
子供、とはいえ、ユリシスの知っているのような下町の子供とは質が違うようだ。
顔を上げ、ユリシスは改めて女の子を見下ろした。
年頃で言うならば、オルファースの魔術予備校に通う、はす向かいに住むイワン少年とこの子供は同じ位。
言葉遣いも着ているものもだが、気品とでも呼ぶのか、年上に一切物怖じせず、堂々としている。
長すぎる赤毛を巻いて、白とピンクの可愛らしいドレスにはたくさんのレースがついている。いかにも金持ち然とした衣服だが、ユリシスには重そうで動き難そうにしか、見えなかった──ユリシスは勝手にドレスと勘違いしていたが、実際にはネグリジェ、寝巻きである。あまりに贅沢な品であった為、ユリシスの乏しい経済観念では、ドレスとしか判断出来なかった。
「しかしここの灯り、おぬしが点けたのではないのなら……。奴らか……そういえば、魔術師もおったな……。……ここも既に見つけておったのだな……くっ……このままでは再び捕まるのも時間の問題か……否!」
顎に手を置き、ブツブツと賢しげに呟く高貴そうな女の子。彼女を置いて、ユリシスは自分への疑いが大きくなる前に立ち去ろうとそっと離れて背を向けた。が、そのユリシスの手を女の子がわっしと握る。嫌々振り返ればこちらをまっすぐ見上げる女の子とがっちり目が合う、というよりも合わせてられている。
「おぬし、洞窟から入ったと言ったな、その洞窟を案内せよ。そして無事、わたくしを外へ導きなさい」
「はぁぁあっ!?」
「わたくしは、名は明かせぬが高貴な身の上である。見事、わたくしを連れて奴らをまく事が出来たなら、ソレ相応の報酬をつかわす。さぁ、早く、早く案内致せっ!」
「えぇ……?」
眉間に皺を寄せてユリシスは女の子を見下ろす。自分も怪しいが、この子供も十分怪しい。
女の子は「早く早く!」と空いた方の手を拳にし、上下に振り振りしている。
どうしたものかと考え始めた次の瞬間、地響きを伴って爆音が二人の耳を貫いた。
爆風と共に破片が飛び散って来る。ユリシスは慌てて空いていた片腕で頭を庇う。同時に掴まれていた腕はそのまま力いっぱい女の子を引っ張り寄せ、自分の体を盾にした。
ユリシスは女の子の存在についてやら、考える事全て、余所へ置いて逃げる事を即決意した。
耳の周りの空気が熱い膜のようなもので覆われでもしたかのような感覚で、爆音に聴覚が鈍くなっているのを感じる。
ユリシスは下唇を噛み、爆発のあった方向を見た。
女の子の現れた方の壁一面、ごっそり崩壊していた。
ユリシスは爆風の前にその音を聞いたし、その直前には、魔力の波動を感じた──これは、強烈な魔術。誰かがやった事。
「コラぁーー! クソガキがっ! いいかげんにしろ!」
土煙で霞む向こう、野太い脅しの怒鳴り声と、刃の鞘走る音が聞こえ、荒々しい足音が複数、床を打った。
一気に鼓動が早まる。ユリシスは、状況説明もどんなワケも何もいらないのを感じた。
かばっと女の子を抱え込んで駆け出し、岩肌がむき出しの洞窟に飛びこんだ。
大きな破片は無く、砕かれて砂混じりの瓦礫がパラパラと床に落ちていく。
複数の足音は全部で六つ。
内一人が、土煙がおさまるのを待ちきれず苛立ちのまま踵で甲高く地面を蹴り、それ以上の高い声で叫ぶ。
「ええい、うっとうしいじゃないか、ブラニス! 何もこんなにハデに壁をぶち抜くこたぁないだろう!?」
きついスリットのスカートから白い足が覗く。長身の美女は、真っ赤に塗られた唇から汚い罵りの声を上げた。ほぼ同時、凝縮された空気が天井からズンと落ちてきてのしかかる。空気の塊は舞い上がっていた砂埃と、立っていた五人の男達の内四人を、床にたたき付けた。
女は手を腰に当て、顎を持ち上げた。四つん這いになって立ち上がろうとする男達を、半眼で見下ろした。
魔術を、女は使った。視界を奪い続ける土煙を、天井に漂っていた空気もろとも地面へ叩きつけたのだ。
四人の男達のうち一人が、膝に手を置きながらよろよろと立ち上がる。
「姉さん、ひでー。入り口早く見つけろって言うから俺、爆裂の術を使ったのに……壁開けたのに」
「そんな事ぁもういいよ! さっさとガキを追いなっ!」
術を使って土煙と弟の魔術師を含む四人の手下を床に沈めた女魔術師は、視界がきくようになった今、静かに口を開く洞窟をまっすぐ指差した。逃げ道は、他に隠し扉が無い限りあの洞窟のみ。
女魔術師を姉と呼んだ、がりがりに痩せた不健康そうな男は、壁一面をごっそり砕いてしまった。見かけとは裏腹にそれなりの実力者と言える。
抜き身の剣を持った他三名を従えて、弟魔術師は洞窟の岩肌へと突入した。風を集めて背を押す補助の術を彼らに投げつけ、女魔術師は息を一つ吐き出した。
「……まったく、せっかく高い金払ってまで捕まえたのに、逃がしたんじゃ大損だよ」
「あっはっはっは──マヌケだよなぁ、お前ら」
女の言葉尻へ被せるように笑い声が響いた。
土煙を叩き落とした圧力の魔術にも平然と、何事も無かったように抵抗してみせた最後の男──背の高い男が、額に手を当て、体をくの字に曲げて笑った。どこか挑発的な、演技臭さを漂わせ、ゆったりと姿勢を正すと嫌味っぽく片方の口角を上げる。
「七歳児に逃げられるなんてよ。そもそも、七歳児捕まえるのに俺を雇わなきゃいかんかったってのも、問題だがな」
「……しょうがないじゃないか。あのガキを守る連中が第二級の魔術師共じゃあ。四級のブラニスや三級のあたしじゃムリに決まってる」
魔術師の力の差は上級になるに従って大きくなる。数字たった一つ、しかし天と地程の実力差がある。ましてや盗みだそうとした対象は──。
女魔術師の言葉に男は一瞬目を細めてから、ニヤリと微笑った。だが、すぐに険しい顔をして、爆裂から落ち着きを取り戻したその空間を見回す。踏み出した足は、床に積み重なった砂利の音を鳴らし、細かい砂を脛まで巻き上げた。
「まさか隠し扉があったとはな」
今くぐってきた壁は、一面ごっそり無くなった。その壁に扉はあったのだろうが見つけられなかった。
洞窟の方に一瞥をくれる。この部屋に開いたその穴は、つい最近のものではない事は周辺の壁の劣化具合からすぐにわかる。
横と奥の三面と天井が残っている。男は壁に近付き久呪石に手を伸ばすと、ぽそりと言う。
「──先客が居たようだ」
「どういう意味だい?」
「この部屋、明るいだろう? 壁についてる久呪石に誰かが魔力を入れたんだろうが……。昨夜はここいらに魔力を感じなかった。さっき魔力を感じたからこそ、七歳児がここに居るかもしれんと当たりをつけられたが」
「まさか……誰か──魔術師が逃がした? 助けが来たってのかい!?」
「……さぁな」
語気を強めてくる女魔術師を男は軽く肩をそびやかした。
明言を避けたが、男はこっそりと気を引き締める。
これほどの数の、百を下らない久呪石に一度に魔力を注いだ。それだけの魔力を練り上げた事も驚きだが、その時間が信じられない程短かい。だから、魔力に気付いて慌てて来たにも関わらず、逃げられたのだ。
先客がもし一つずつに魔力を注いでいたなら、もっと時間がかかったろうし、魔力波動はその分少なかっただろう。気付かなかったかもしれない。
最初のひとつに魔力を注ぐ時の波動を捕らえて来れば、逃げられはしなかったかもしれない。
だがなぜ、わざわざ明かりを、全部点して、逃げたのか……。小さな灯りを手元に持って動かれたなら、あちこち小さな魔術の灯は置かれているのだ、紛れて気付けなかったろう。
男の推理は結論を出せないまま頓挫するが、当然だ。
たまたまここに来て、たまたま明かりをつけたユリシスが、ここに逃げ込んできた七歳児と出会い、わけもわからずそのまま飛び出しただけなのだから。男にとっては情報が足りない。
「……あいつらだけじゃあ心配だね、私も追う」
そう独り言ちて女魔術師は風を纏いふわりと浮くと、洞窟の奥へと飛んだ。
残された男は、今度はゆっくりと辺りを見渡す。
「あーあ……もったいねぇよなぁ。こんな綺麗な部屋ボロボロに壊しやがって。作った職人泣くぞ。……どん位前の職人かは知らんが」
たいして感情も無く呟いてから、男は悠然とした態で雇い主たちを追う事にするのだった。
その背の高い、長い黒髪を一つに束ねた青年の名を知らぬ悪党はいない。
つり上がった両目の眦に、雷と炎を模した朱の鋭いラインの刺青が走っている。この魔術師の名を知らぬ者はいない。
時に味方に、時に敵に。
金次第で魔術はいかなる事にも使う。人を滅ぼす事も厭わない二十一歳の魔術師──アルフィード。
国内に十九名居る第一級魔術師の一人。