アネモネの花言葉
王立学院の最上階には、王太子妃候補の居室がある。
そこは、この国で最も王妃に近い少女のみが住むことを許された神聖な場所。
学院の庭園には、色とりどりのアネモネの花が競うように咲き乱れている。
アネモネは幼い頃、幼馴染のルーカスと花冠を作って遊んだ思い出の花だ。
「エミリア嬢、少しは休んだらどうだ?」
背後からルーカスの心配そうな声が聞こえた。
彼は王太子妃候補の護衛として、この部屋の警護を任されている。
かつて、木登りをして泥だらけになってじゃれ合っていた少年はもういない。
彼は、硬い銀の甲冑に身を包み、もう決して私に触れようとはしないのだ。
「まだ休めないわ、ルーカス。やらなければならない事が山程あるの。私は来月の選定の儀で、エドワード殿下の正妃にならなければいけないんですもの」
私は少し早口でそう返した。
だってルーカスの宝石みたいな青い瞳には、隠しきれない情愛が宿っているのを知っているから。
そして私の心も彼と同じものを求めている。
そんな許されない想いを隠すために、私はそっと彼から目をそらした。
ルーカスは公爵家の分家に連なる騎士の家系で、私は本家の嫡子である。
「大きくなったらルーカスのお嫁さんになる」と言って笑い合って小指の誓いを交わしたあの日、私たちはまだ世界の仕組みを知らなかった。
「………エドワード殿下は、きっと君を大切にして下さるはずだ。私も騎士として君を守り続ける」
ルーカスの声がわずかに震えていた。
彼は、私がエドワード殿下に嫁ぐことこそが、この国と私の一族を守る唯一の方法だと言っているのだ。
だからこそ、自分の気持ちを押し殺して、私を正しい場所へと送り出そうとしている。
ある夜、私はこっそり居室を抜け出して、ルーカスの元へと向かった。
「お願い、ルーカス……一度だけでいいの。昔みたいに、私の名前を呼んで?」
月明かりの下で、私は彼にすがり付いて懇願した。
騎士の甲冑は冷たく、けれどその奥にある彼の心臓は狂おしいほど激しく脈打っていた。
「……エミー」
彼の大きな手が、ためらいながらも私の髪に触れる。
ねぇ、ルーカス。王妃になんてなるな!と言って?
一緒にここから逃げよう!と言って?
喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込んだ。
それを言えば、言ってしまったらきっと、全てを失って罪人として裁かれることになる。
選定の儀の朝、私は純白のドレスに身を包んで、時間通りに大広間へと歩を進めた。
エドワード殿下の隣で優美に微笑むこの姿は、誰もが羨むくらい完璧で幸せそうに映ることだろう。
私は瞳の端で、騎士団の最後尾の男性を誰にも気付かれないようにひっそりと捉えた。
ルーカスはまるで石像のように、真っ直ぐ前だけを見つめている。その瞳にはもう、愛おしそうに私を映すことはないだろう。
「――よって、エミリア・ル・ローレンスを次期王妃と定める!」
国王陛下の重々しい声が大広間に響き、会場がワッと歓喜に沸いた。
その瞬間ルーカスは、深く深く頭を下げた。
それは幼馴染への別れであり、新しい王妃への絶対的な服従の礼だった。
視界が涙で歪む。
ルーカスとの思い出が、散りゆくアネモネの花びらのように、枯れて消えていくような気がした。
数年後、私は民から愛される完璧な王妃になった。
けれど私の恋心は、王立学院の居室に置き忘れたままずっと時を止めている。
ルーカスは、北の国境を守る過酷で危険な任務を自ら志願して城を去った。
風の噂で、彼が戦場で命を落としたと聞いた時、私は豪華な玉座の上で声を殺して泣いた。
私の元に、彼が死の間際に遺したという一通の手紙が届いた。そしてそこには、たった一行だけの小さな文字が書かれていた。
『またいつか、来世で、アネモネの花冠を君に』
私は震える手で、その手紙を引き出しの奥にしまう。
「ねぇ、ルーカス。またいつか、アネモネの花冠を作りましょうね?」
それは、幼い頃に交わした無邪気で無垢な約束。
窓の外には、あの頃と変わらぬ色鮮やかなアネモネの花が、溢れんばかりに咲き誇っている。
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ちなみに、アネモネの花言葉は、儚い恋、恋の苦しみ、あなたを愛しています…などの意味があり、色によっても意味が変わるそうです。




