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どこ吹く風の花

作者: 因果応報
掲載日:2026/03/08

 東京の、私の育った家はその昔、漁師町の一帯であった地域にある。今でこそ駅前の通りはパチンコ、スロット屋の電光看板が目に痛々しいばかりに差し込んでくるような、ひとつ裏手に入ればダウンコートに身を包んだキャッチが目を光らせているような、それなりに賑やかな街である。

 そんな故あってか、今でもその街は下町気質の残る雰囲気を持っている。その辺りの子供達はやはりその気質を引き継ぐものが多いようで、逆立ちしても品がいいとは言えない人間が少なくなかった。

そんな古き良き雰囲気を背負うこの地域で私は育ったのだ。

 私が中学生になったみぎり、それまで別の世界と思っていた(実際には大人が徒歩で苦もなく歩ける距離にあるのだが)地域の私の卒業したものとは別の小学校から入学してきた多くの同級生と知り合うことになった。


その中で一際立ち居振る舞い、言葉遣いや容姿の美麗な女子がいたのだった。

またその子は学業の方も達者であった。

当時の私からすれば天上の人と言わんばかりの人間であり、あまつさえ私は学も、容姿も、そして肝心の口も立たない男であった。


私にとってその女の子は、生きる次元を異にする物語の人であった。

こういった意味で私は"憧れ"というものを鮮烈に抱いたのである。


どこか埃と共に黄ばんでいるようなこの地域にあって、そうした美はより一層輝きを強めていたように感じる。

無礼にも彼女をアスファルトに咲くたんぽぽとは言うまいが、少なくとも同じ形態のそれであるような印象だ。


そんな彼女を、いや正確には全くもって彼女では無いのだが。

ふと目にしたのだ。


何気ない一日の終わり。待ちくたびれたドアの開きに僅かに遅れて足はホームを踏み締める。

もはや苦にも思わないホームへ下る階段の行列。それを前方に拝したその時。同じく降車してきた女性の横顔が目に入る。

 どうにも見覚えがある。

 そう思ったのも僅か。

 緊張か、興奮か、理解の追いつかぬままに心臓は大きく3、4度重い音を刻む。


 脇が、指先が、脈打つ。

 何か深刻な失敗を犯した時のような脈動である。


 私の足は当然の如く先を急いでいたが、彼女の後ろ姿は近づこうにも行列に阻まれ、やや遠ざかりつつある。


 美しく巻かれた、やや明るげな茶に染まった長い髪。

 私の知る彼女らしい、しっかりとした襟と裾のベージュのコート。


 愚鈍で、呑気で、思慮の浅い様にしか見えない腹立たしい男や女が私の進路を塞ぎ続ける。


 彼女を見失わんと先を急ぐ。

 悠長に階段を下りきった朴念仁どもを抜かす。

 やや広い間に出る。


 見渡す。


 居なくなった。


 まだ改札までは十数段や二十段ほどのとるにたらない階段がある。


 誰1人として改札を出ないはずがないのだ。


 今度は広い階段なので、容易く駆け下りることができる。


 改札のどこかにいるはずでは。


 見渡す。


 居ないのだ。


 我ながら見苦しくも、飼い主を探す犬のようにあちこちを見回す。


 吐きかけた溜め息が固唾と共に引っ込む。


 彼女は悠々と、それも全く私のことなぞに気づきもしない素振りでエスカレーターを降りていた。

見逃さんと小走りになっていた私は、愚かにも階段で彼女を抜き去り、それまで彼女の存在しえない空間を見渡していたのだ。


 ほぼ同時に、三つか四つ程間をとった改札を出た私たちの進路は全くの逆であった。


 私が知る限り、彼女の帰路はそちら側でないはずだ。

 限りなく彼女に似た雰囲気を醸し出すその女性は、私の心持ちとは裏腹に躊躇することもなく歩き去っていく。


 私は歩き去っていくその女性の背を見送るに留まった。


夢の覚めぬ心持ちで自宅へと歩き出す。

ガールズバーのキャッチのような、呼び子のような様相の女が掲げる看板には一瞥もせず、私は私の道を行く。


夢だったのかもしれない。彼女ではなかったのかもしれない。話しかけにいくべきだっただろうか。いやそんなはずはない。彼女はきっと、もしあれが彼女でなくとも、今もなお彼女らしいうっとりとするような物語の雰囲気をどこか漂わせているような人でいるだろう。


高鳴るわけでもないがしかし高揚を感じる私の胸は、けれどもどこかうら侘しい気持ちを孕んでいた。


彼女は今でも私のことなぞ気にも留めていなくて、きっと私の印象は進路を横に通過していく立木のそれと大して変わらないのだ。


 一人晩御飯(もはや夜食の時間である)を食べながら、駅で見た彼女の、もしあの女性が彼女でないのなら昔同じ校舎に通っていた頃の彼女の残像が、私の脳に詩的で自慰的な言葉を想起させ続けた。


私はやるかたのない無力感と言いようのない高揚感に包まれながら、寝る支度を始める。


 きっと私がベッドに入り、そして眠りにつくとこの生き生きとした記憶と高揚感は過去のものとなる。思い出すのに苦労する夢の如く、忘れまじとすれども忘れゆくものとなる。


 気づけば一時三十一分を指す時計。


この真夜中に、このたった二時間程の間に、私の思い出せる限り最初の青春は蘇っていた。

この甘味と酸味を噛み締め続けることができるのならば、それが例えある面では惨めな無力感を含む侘しさを生むとしても、私は構わない。


はるか昔の記憶が、ずっと目を背け続けてきた感覚が、一夜にして私のこれまでを上塗りする。


計算され、安定し、無茶な橋は渡らないと思い生きてきた私の人生が、途端に無謀な妄想へと舵を切らんとしているのであった。

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