第3回/納税?いえ債権回収の時間です。
フェルガナ辺境伯領の朝は、清冽な「新生活」の香りに包まれていた。
かつての停滞した埃の臭いは消え、代わりに漂うのは、修繕された街道を駆ける馬たちが蹴り上げる乾いた土の匂い。そして、新設された役場の窓から漏れ出す、乾ききったばかりの高品質な羊皮紙と、芳醇な松脂を含んだ封蝋の香りだ。
パチ、パチ、パチ、パチ……。
エルザ・レージャーは、新調された執務室で算盤を叩いていた。
指先に触れる黒檀の珠は、使い込むほどに彼女の体温を吸い込み、滑らかな光沢を増している。指の腹で珠を弾くたび、硬質な木材がぶつかり合う「カチリ」という音が、静かな部屋に小気味よく響く。
「……九分九厘、整いましたわ」
エルザは眼鏡の奥の瞳を細め、熱っぽい吐息を漏らした。
目の前には、フェルガナ領の全資産、全債務、そして未来の収益予測が、完璧な調和を保って記載された巨大な大帳簿が鎮座している。
左右の合計額が一致したその瞬間、彼女の背筋を悦楽の震えが駆け抜けた。数字という名の兵卒たちが、彼女の指揮下で一糸乱れぬ隊列を組み、広大な「白」の余白を支配していく。
その至福の時間を、不吉な金属音が踏みにじった。
「フェルガナ辺境伯ゼクス! 王命による『特別魔導徴税』の執行である! 速やかに門を開けよ!」
重厚な城門の向こうから響く、傲慢な怒声。
エルザは官能的な余韻を断ち切られた不快感に、わずかに眉を寄せた。窓の外を見れば、王国の紋章を掲げた豪華な馬車と、真っ赤なマントを翻す「魔導徴税騎士団」が、土足で領地へと踏み込んできたところだった。
彼らが纏うのは、最新式の魔導鎧。大気中の魔力を吸い込み、絶えず不快な高周波の駆動音と、焦げたオゾンのような臭いを放っている。
その先頭に立つのは、エルザが王都にいた頃の同僚であり、宿敵でもあったバルトロ税務官だ。
「……やれやれ。私の計算より、三日ほど早い到着ですね。王国の資金繰りがいよいよ限界だという証拠でしょう」
エルザは静かに立ち上がり、愛用の四次元鞄と算盤を手に取った。
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「……五百万ゴールドだと?」
城館の大広間。ゼクス辺境伯が、突きつけられた羊皮紙を睨みつけ、低く唸った。
バルトロは、脂ぎった顔に卑屈な笑みを浮かべ、自身の豪華なマントを直した。
「左様です、ゼクス閣下。王都では現在、国防のための『大魔導障壁』の再構築が急務。辺境伯領も王国の一部である以上、この程度の負担は当然でしょう? ……もっとも、エルザ・レージャー。君のような『追放者』を匿った罰金も含まれているがね」
バルトロはエルザを横目で見やり、鼻を鳴らした。
「エルザ、君がこの領地の帳簿をいじくっているのは知っている。だが無駄だ。我々には王権に基づく『即時差押権』がある。金が出せないと言うなら、この領地の土地、建物、そして領民たちの身分すらも、債権として没収させてもらうよ」
背後の騎士たちが、魔導剣の柄に手をかけた。空間が威圧的な魔力で歪み、空気が重く沈み込む。
だが、エルザはその魔圧を、事務的な無関心さで受け流した。
彼女の視界は、バルトロが掲げた「徴税命令書」の文字を、単なるテキストデータとしてではなく、物理的な「脆弱性」として捉えていた。
「バルトロ様。その命令書、一点だけ確認させてください」
エルザは、バルトロの手にあった紙を、目にも止まらぬ速さでひったくった。
「な、何をする!」
「……ふむ。発行日は先月。承認印はカイル王子の代理印。名目は『国防寄付金』……。あらあら。**領収書、あるいはその根拠となる予算決議書はありますか?**」
「な……!? 王命に領収書などあるわけがないだろう!」
エルザは、冷たく微笑んだ。
「**領収書なき公費支出は、私的流用です**。ましてや、手続きを無視した強制徴収は、会計学上、国家による『強盗』と定義されますわ。……ですが、安心してください。私たちフェルガナ領は、王国の良き納税者として、この五百万ゴールドの請求に対し、**『相殺』**を主張いたします」
「相殺だと……?」
エルザは四次元鞄から、一冊の、驚くほど厚い黒革の帳簿を取り出した。
それを開いた瞬間、広間に「歴史」の匂いが広がった。古びた紙が放つ、かすかなカビの臭いと、重厚な時の重み。
「こちらをご覧ください。過去二百年にわたる、フェルガナ辺境伯領から王国への『北方防衛代行費』の未払い一覧です。……フェルガナ領は、王国の北の盾として魔物の侵攻を食い止めてきました。本来、王国が負担すべき防衛費、及び負傷した兵士への見舞金、さらには街道の維持補填費……。これらはすべて、王国政府の『未払金』として計上されています」
エルザは算盤を手に取り、高速で珠を弾いた。
パパパパパン!
その音は、もはや魔導騎士たちの心臓を撃ち抜く銃声のようだった。
「防衛代行費、元金一億二千万ゴールド。これに、王国法で定められた遅延損害金、年利一四・六%の複利計算を適用します。……パチ、パチ、タタン! はい、出ました。現在、王国がフェルガナ領に対して負っている債務の総額は、**四十八億、七千六百五万、四百ゴールド**です」
広間が、静まり返った。
バルトロの顔から血の気が失せ、掲げていた徴税命令書が震え始める。
「な、何を馬鹿な……。そんな古い話、時効だ!」
「いいえ。王国の会計規定第百二条をご確認ください。『国防に関わる債務については、その履行が完了するまで時効は停止する』とありますわ。……バルトロ様、あなたが持ってきた五百万ゴールドの請求権など、この巨大な債権の山に比べれば、砂粒のようなものです」
エルザは一歩、バルトロに歩み寄った。
彼女の眼鏡が、逆光を受けて白く発光する。その立ち姿は、死を宣告する死神よりも冷酷で、そして――計算し尽くされた美しさに満ちていた。
「五百万を差し引いても、まだ四十八億ゴールド以上の『売掛金』が残っています。……バルトロ様、本日は王国の代理人として来られたのですよね? では、**今すぐこの債務を履行してください**。現金が無理なら、そうですね……」
エルザは、バルトロの背後に控える魔導騎士たちの「魔導鎧」を指差した。
「その鎧。一基三万ゴールドの資産価値がありますね。そこの馬車、内装の金細工を剥がせば十万ゴールドにはなるでしょうか。……ええ、**逆差し押さえ**を執行します。事務的に、迅速に」
「ふざけるな! 騎士たちよ、この狂女を捕らえろ!」
バルトロの絶叫と共に、騎士たちが抜剣した。
だがその瞬間、エルザは算盤を高く掲げ、最後の一打を叩きつけた。
――カチリ。
その瞬間、騎士たちの魔導鎧が、一斉に不快な爆音を立てて火花を散らした。
「ぐ、あああ!? なんだ、魔力が……吸い出される!?」
「残念でした。その魔導鎧、王宮財務院の『資産リスト』によれば、私が退職前に設定した『保守運用プログラム』によって制御されています。メンテナンス費が未払い(デフォルト)状態になった瞬間、機能停止するように組んでおいたのです。……いわば、**会計的なセキュリティロック**ですね」
エルザは、膝をついた騎士たちの間を、優雅に歩き抜けた。
彼女の手には、いつの間にか「物品受領書」の束が握られている。
「この鎧、馬車、そしてあなたが着ているその高価な絹のマント。すべて、王国の債務返済の一部として、時価で買い叩かせて……いえ、差し押さえさせていただきます。……あら、そんな顔をしないでください。貸借が取れた。ただ、それだけのことですわ」
エルザは、震えるバルトロの胸ポケットに、一枚の紙片をねじ込んだ。
「……はい、領収書です。差押物件:魔導鎧二十四基、他一式。充当先:未払い防衛費。……これで、今日の取引は成立です」
バルトロは、もはや声も出せず、ただただ、地べたに這いつくばるしかなかった。
エルザは、それを見下ろし、恍惚とした表情で自分の指先を眺めた。
巨大な王国という「負債」を、領地という「資産」で相殺する快感。
数字の天秤が、劇的な速度で水平へと戻っていく。
「……ふぅ。整いました。ああ、やっぱり数字は嘘を吐きませんわ。たとえ魔法が消え、国が滅びようとも、この『差額』だけは永遠に残るのですから」
エルザ・レージャー。
彼女の「監査」によって、王国の威信は、一枚の領収書と共に粉々に砕け散った。
その日の夕暮れ。
身ぐるみを剥がされ、下着同然の姿でトボトボと王都へ帰るバルトロたちの背後で、フェルガナ領の鐘が鳴り響いた。
それは、弱小領地が王国に対して経済的宣戦布告を果たした、勝利の音色だった。
「さて、ゼクス様」
エルザは、奪い取った大量の資産を眺めながら、満足げに微笑んだ。
「これだけの『資本』があれば、いよいよ始められますね。……世界で初めての、『中央銀行』の設立を」
彼女の野望は、もはや一領地の再建に留まらない。
数字という名の魔法で、世界そのものを「買い取る」準備が整いつつあった。




