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第2回/呪いではなく、管理されていないだけです


 ガタ、リ。

 車輪が泥濘ぬかるみに嵌まり、粗末な乗合馬車が大きく揺れた。

 エルザ・レージャーは、膝の上で跳ねた四次元鞄を無造作に押さえつける。鼻腔を突くのは、湿った土の匂いと、隣に座る行商人が零した安酒の、発酵した酸っぱい臭気だ。


 窓の外には、王都の整然とした石畳とは似ても似つかない、荒廃した景色が広がっていた。

 ひび割れた土。手入れを放棄され、立ち枯れた麦。遠くに見える家々の屋根は腐り落ち、空は常に薄灰色の雲に覆われている。ここは王国最北端、フェルガナ辺境伯領。人呼んで「王国のゴミ捨て場」。


「……ひどいものですね。道路維持管理費の予算が、少なくとも十年間は執行されていないことが一目でわかります」


 エルザは独り言ちて、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 彼女の視界――「会計士の眼」には、この荒野が単なる風景としては映らない。


 道幅の減少は、物流コストの増大。

 枯れた畑は、将来的な徴税権の毀損。

 歩く人々の痩せ細った頬は、労働力の再生産コストが賄えていない「債務超過」の証だ。


 エルザは、愛用の黒檀算盤を取り出し、無意識に珠を弾く。

 パチ、パチ、パチ……。

 乾いた音が車内に響く。それは彼女にとっての心音であり、外界の混沌を秩序へと書き換えるための聖なるリズムだった。


「お嬢さん、そんな玩具で何を遊んでるんだ? こんな土地、何をしたって無駄だぜ」


 隣の行商人が、欠けた歯を見せて笑った。

 エルザは指を止めず、冷徹な視線を彼に向ける。


「玩具ではありません。これは、この世界の『不備』を修正するための精密機器です。それから、あなたの抱えているその荷物。布の仕入れ値に対して、馬車の運賃が利益を圧迫していますね。次の街で売るなら、一ヤードあたり三割は上乗せしないと、あなたの今夜の宿代は『赤字』ですよ」


「へっ……?」


 呆気にとられる男を無視し、馬車は領都の門を潜った。


---


 フェルガナ辺境伯領の城館は、もはや「廃墟」と呼ぶのがふさわしかった。

 冷たい風が石造りの廊下を吹き抜け、至る所に蜘蛛の巣が張っている。壁に掛かった先代の肖像画は煤け、床の絨毯は擦り切れて地の色すら定かではない。


 案内された執務室で待っていたのは、無精髭を生やした一人の男だった。

 フェルガナ辺境伯、ゼクス。

 彼は上質なはずの革椅子に深く沈み込み、テーブルに投げ出した脚を揺らしていた。部屋には、強い煙草の匂いと、古紙が湿気で腐りかけたような、どんよりとした臭気が充満している。


「王都から『筆頭会計士』が追放されてくるなんて、どんな冗談かと思ったが……。本当に来たのか。魔力無しの、数字フェチ女が」


 ゼクスは、机の上に置かれたエルザの履歴書(と、王国からの『厄介払い推奨状』)を指先で弾いた。


「この領地がどうなっているか、見てきただろう? 呪われた土地、枯れた魔力。ここに残っているのは、借金と、明日食うパンもない領民だけだ。魔法使いも騎士も逃げ出したこの場所に、お前さんのような『事務屋』が何の用だ?」


 エルザは、ゼクスの言葉を柳に風と受け流し、部屋の隅々まで視線を走らせた。

 そして、執務室の奥に積み上げられた、埃を被った膨大な「紙の山」に目を留める。


「ゼクス辺境伯。私は、ここが『呪われている』とは思いません」


「ほう? 強がりか?」


「いいえ。『管理されていない』だけです。……そこの書類の山。最後に目を通されたのはいつですか?」


 ゼクスは鼻で笑った。


「さあな。三年前か、五年前か。どうせ中身は『金を出せ』という督促状か、『腹が減った』という陳情書だ。読んだところで、無い袖は振れん」


 エルザは、四次元鞄から白い手袋を取り出し、恭しく装着した。

 彼女の指先が、その不潔な紙の山に触れる。

 カサリ、という紙同士が擦れる音。指先に伝わる、古びた紙のざらつき。ページを捲れば、閉じ込められていた数年分の日光と埃の匂いが舞い上がる。


「……っ」


 その瞬間、エルザの脳内に火花が散った。

 無造作に積み上げられた請求書。乱雑に記された徴税記録。日付もバラバラ、勘定科目も滅茶苦茶。

 普通の人間の目には「ゴミ」にしか見えないその情報の断片が、彼女の脳内にある「理想の帳簿」という鋳型に嵌まっていく。


「……素晴らしい」


 エルザの口元が、官能的なまでに歪んだ。

 

「なんて、なんて乱だら(みだら)な……。これほどまでに混沌とした数字の群れを見るのは初めてです。この領地は、全身が『使途不明金』という癌に侵されている。……ふふ、ふふふっ。これ、全部私が、**『仕訳しわけ』**していいのですね?」


 彼女の瞳には、もはやゼクスすら映っていない。

 眼鏡が魔導ランプの光を反射し、白く輝く。

 エルザは、倒れかかっていた机を水平に整え、愛用の算盤を置いた。


「おい、何を……」


「静かに。監査の時間です」


 パチィィィィィィィィィィィン!


 空気を切り裂くような、鋭い音が響いた。

 エルザの指が、目にも止まらぬ速さで算珠を弾き始める。

 それは、もはや演奏だった。

 右から左へ、左から右へ。黒檀の珠が、物理法則を無視したような速度で往復し、小気味良いリズムを奏でる。


 パチパチ、パチパチパチ、タタン!


 エルザの脳内では、領地の地図が立体的なグラフへと変貌していた。

 「この水利権の支払いは二重計上されている」「この倉庫の備品、減価償却が終わっているのにリース料が払われ続けている」「この村の税、徴収官が三割ピンハネしている」――。


 数字の嘘が、次々と剥がれ落ちていく。

 彼女の指先が動くたびに、領地の「負債」という魔物の肉が削ぎ落とされ、骨格が見えてくる。


「……っ、ああ! 気持ちいい……! 借方(左)から不純物を排除し、貸方(右)に真実を流し込む。バラバラだった世界が、一本の線で繋がっていく……!」


 エルザの呼吸が荒くなる。額には薄っすらと汗が滲み、肌が桜色に上気していく。

 彼女の「会計士の眼」は、書類の行間に隠された、汚職貴族たちの筆跡、インクの掠れ、紙の厚みの違いさえも見逃さない。


「発見しました。三年前の災害復興支援金、四万ゴールド……。支出先は『治水工事』となっていますが、その日付、隣国で大規模な『宝石オークション』があった日と一致しますね。……ゼクス様、あなたの前の執事、今どこにいます?」


「あ……? ああ、あいつは三年前、故郷へ帰って隠居したはずだが……」


「いいえ。彼は今、隣国で悠々自適の貴族生活を送っているはずですよ。私たちの『金』でね。……はい、**不当利得返還請求権、確定。**仕訳完了です」


 エルザが最後の一打を強く叩くと、執務室を支配していた淀んだ空気が、一気に霧散したように感じられた。


 数時間後。

 ゼクスの前には、完璧に整理された一枚の「貸借対照表バランスシート」が置かれていた。


「これが……、この領地の正体か?」


 ゼクスは、自身の震える指でその紙をなぞった。

 そこには、絶望的な赤字ではなく、「取り返せる金」と「削れる無駄」が、残酷なまでに明快な数字として記されていた。


「現状、この領地のキャッシュフローはマイナスですが、隠匿資産の回収と、不当契約の解除、及び税収の適正化を行えば、来月には単月黒字化が可能です。……三ヶ月あれば、王国へ支払う納税額を合法的に『ゼロ』にまで圧縮してみせましょう」


 エルザは、乱れた髪を指で整え、恍惚とした余韻に浸りながら言った。


「事務など誰でもできる……。カイル王子はそう仰いました。ですが、数字を操ることは、世界を定義することです。……ゼクス様、私を雇われますか?」


 ゼクスは、目の前の「数字の魔女」を凝視した。

 魔法が使えない? 笑わせるな。

 彼女は今、算盤一つで、この死にかけた領地を「蘇生」させてみせたのだ。


「……面白い。エルザ・レージャー。お前に、この領地のすべてのカネを預ける。好きにしろ。その代わり、俺をこれ以上退屈させるなよ」


「畏まりました。……あ、それから」


 エルザは、部屋を出ようとして足を止め、冷徹な事務スマイルを浮かべた。


「ゼクス様。先ほどあなたが吸っていたその煙草。領主の公務用備品費から落とそうとしていましたが……。**領収書はありますか?** なければ全額、あなたの給与から天引き(ドローイング)させていただきますので」


「……鬼か、貴様は」


「いいえ、会計士です」


 エルザが扉を閉めると同時に、城館のどこかで、古びた時計が再び時を刻み始めた。

 

 一方で、王都。

 エルザがいなくなった財務院では、カイル王子が真っ赤な顔をして叫んでいた。


「どういうことだ! なぜ魔法騎士団の給料が払えない!? 予算はたっぷりあるはずだろう!」


「そ、それが……。エルザ殿が管理していた『魔法演算式金庫』のパスワードが、彼女の弾く算盤の『検算結果』と連動しておりまして……。我々では、一円の計算も合わせられないのです!」


 崩壊の足音は、着実に、そして数字の精度で正確に、王国へと近づいていた。



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