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第1回/この世に魔法があるとしたら複式簿記の他にありません


 パチ、パチ、パチ――。

 静謐な書庫に、乾いた音が等間隔で刻まれる。

 それは王立財務院の最奥、魔導ランプの淡い燐光だけが照らす聖域。エルザ・レージャーは、愛用の黒檀製算盤そろばんを弾いていた。


 鼻腔を突くのは、古びた羊皮紙の乾いた匂いと、上質な黒インクの鉄分を含んだ香り。

 エルザの指先は、羽毛が触れるような軽やかさで算珠を踊らせる。彼女の視界には、数千枚に及ぶ領収書と伝票が、整然とした兵列のように並んでいた。


「……九万、八千、四百、二十二。……っ、ふぅ」


 最後の珠を弾き終えた瞬間。

 右側の「借方」と左側の「貸方」の合計が、一円の狂いもなく一致する。

 エルザの背筋に、甘美な電流が走った。眼鏡の奥の瞳が、熱を帯びて潤む。脳内で、バラバラだった数字の奔流が一本の美しい大河へと収束していく。

 

 完璧。完全。調和。

 左右の数字がぴたりと符合したこの瞬間こそ、彼女にとっての「絶頂」だった。


「……整いました。ああ、なんて美しい。この世に魔法があるとしたら、それは複式簿記の他にありませんわ……」


 エルザは頬を上気させ、帳簿の白い余白を愛おしげに撫でた。紙のわずかな凹凸が指先に心地よい。彼女にとって、数字は裏切らない。嘘を吐かない。磨き上げられたクリスタルのように透明で、強固な真理。


 その至高の時間を、無骨な足音が切り裂いた。


「おい、エルザ! まだこんな湿気臭い場所に引きこもっているのか!」


 豪奢な彫刻が施された扉が、蹴破るようにして開く。

 現れたのは、第一王子カイル・アステリア。金髪を揺らし、香水のむせ返るような香りを引き連れて、彼は土足で聖域へと踏み込んできた。その後ろには、きらびやかな鎧に身を包んだ魔法騎士たちが、嘲笑を浮かべて控えている。


 エルザは恍惚の表情を瞬時に消し、氷のような無機質な事務的笑みを貼り付けた。


「カイル殿下。入室の際はノックを。扉の丁番ちょうつがいの摩耗は、王宮の維持費という『経費』を増大させます」


「うるさい! また数字か。貴様はそればかりだな。魔力測定不能の無能女が、算盤を弾いて魔法使い気取りか?」


 カイルはエルザの机に歩み寄り、積み上げられた帳簿を一蹴した。

 バサバサと、エルザが心血を注いで整理した領収書が床に散らばる。


「……っ」


 エルザの視界が、一瞬だけ真っ赤に染まった。

 彼女のフェティシズムが、秩序を乱されたことへの猛烈な憤怒を訴える。だが、彼女は震える指先を机の下で隠し、静かに立ち上がった。


「殿下、本日の御用件は? 予算の追加申請であれば、まずは様式第四号の申請書を……」


「そんなものは不要だ。エルザ・レージャー、貴様に宣告する。本日をもって、貴様を財務院筆頭会計士の職から解任し、この国から追放する!」


 王子の声が、高い天井に反響する。

 背後の騎士たちが、クスクスと下卑た笑い声を漏らした。


「追放……、ですか?」


「そうだ。これからのアステリア王国は『魔法至上主義』をさらに推し進める。強力な魔導師が軍を率い、華やかな魔法が街を彩るのだ。そんな時代に、貴様のような地味で、数字を数えるしか能のない事務屋など不要! 事務など、計算魔法を使えば誰でもできるのだ!」


 カイル王子は、エルザの眼鏡を指差して高笑いした。


「貴様の給料も無駄だ。その分を、私の親衛隊の新しい魔導鎧マジックアーマーの予算に回す。事務屋一人を削るだけで、どれほどの魔法資材が買えることか! 素晴らしい経費削減だろう?」


 エルザは、床に散った一枚の領収書を静かに拾い上げた。

 それは、昨晩彼女が精査した、王宮騎士団の「武器メンテナンス費」の伝票だった。


「殿下……。事務を軽んじるということは、国家の血流を止めることと同義ですが、よろしいのですか?」


「ふん、屁理屈を! 魔法があれば、数字など後からついてくるのだ!」


「左様ですか」


 エルザは短く答え、眼鏡を指で押し上げた。レンズの奥で、彼女の数字フェチとしての「鑑定眼」が、王子の背後にある「現実」を透視する。


 王子の着ているマント。金糸の刺繍は豪華だが、その裏地は安物の合成繊維だ。

 騎士たちの鎧。輝いてはいるが、魔力の循環回路がメンテナンス不足でひび割れている。

 そして何より、王宮の廊下から聞こえる水の音――噴水の水圧が、昨日よりわずかに低い。


 これらはすべて、エルザが「帳簿の辻褄を合わせる」ことで、かろうじて隠蔽し、運用を続けていた王国の「壊死」の兆候だった。


「わかりました。謹んでお受けいたします。ですが、最後に一点だけ、確認させてください」


 エルザは懐から、一枚の小さな紙片を取り出した。

 それは、王子が先日、お忍びで高級クラブ『ラピスラズリ』を訪れた際、裏ルートで決済しようとした領収書だ。


「……殿下。この、高級魔導ワイン三本の購入費十二万ゴールド。名目は『軍事戦略会議用備品』となっていますが、**領収書はありますか?**」


 王子の顔が、一瞬で土気色に変わった。


「な、何を……」


「**領収書なき公費支出は、私的流用です**。私はこれまで、あなたのこうした『遊び』を、他の部署の不用品売却益や雑所得と相殺し、監査に通るよう『粉飾』して差し上げていたのですが……。私が辞めるとなると、次回の会計監査、誰が説明するのでしょうね?」


「貴様、脅す気か!?」


「いいえ。事務報告です。ああ、それから。私が管理していた『予備費』という名の魔法障壁維持予算。これも、私が個人的な計算式で運用していたため、私がいなくなると解凍アクセス不能になります。……王国は、一ヶ月以内に資金ショートを起こし、物理的にも魔法的にも機能停止するでしょう」


 エルザは、床に散らばった自身の私物――算盤と、四次元鞄――を素早く回収した。

 呆然とする王子を置き去りにし、彼女は出口へと歩き出す。


「待て! 誰が去っていいと言った!」


 エルザは足を止め、振り返らずに告げた。


「カイル殿下。この世に魔法があるとしたら、それは複式簿記の他にありません。貸借バランスを失った国に、明日の朝日は昇りませんわ。……さようなら、**損益計算書の読めない負債コストかたまりの皆様**」


 彼女が重厚な門を潜り抜けた瞬間、背後で王宮の照明が、一瞬だけ不吉に明滅した。

 それは、王国の壊死が、表面化し始めた合図だった。


 外に出ると、冷たい夜風がエルザの頬を撫でた。

 彼女は深く息を吸い込み、月光に照らされた街道を見据えた。


「さて……。どこか、私の愛する数字たちが、正しく、美しく並んでいる場所はないかしら」


 エルザ・レージャー。

 魔力ゼロの女会計士。

 彼女の手には、王国中の秘密と弱点を記した「領収書フォルダ」が握られていた。


 これから始まるのは、最強の魔法使いの物語ではない。

 一円の誤差も許さない、冷徹かつ官能的な「数字の支配」の物語である。


「ああ……。新しい帳簿を汚すのが、今から楽しみでなりません」


 エルザは、眼鏡の奥で不敵な笑みを浮かべ、夜闇へと消えていった。


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