君への想いは届くことなく、消えることもなく
弟が生まれた。僕とは十七歳差。
ベビーベッドの中で弟が泣いているから、僕は抱きあげようとした。けれど赤ちゃんの体は小さくて、ふにゃふにゃとした筋肉が頼りなくて、うまく抱けずに焦った。
すると、義母が血相を変えて飛んできて、僕の頭を叩いた。
「なにしているのっ!! さわらないで!!」
「泣いているから、あやそうと……」
「この子を落としたら、あんた、責任とれんの?」
母は僕の手から奪うようにして弟を取りあげると、愛おしそうに胸に抱いた。優しい声で弟の名前を呼ぶ。
泣き声がやんだ。
母は、平気できついことを言う。まるで、人の心が言葉で傷つくことを知らないかのように。
母の無神経さは言葉だけではない。僕の進路や、友達関係、時間の使い方にまでうるさく口を挟む。
行動、考え方、洋服、髪型、家での過ごし方、読む本、持ち物、食べるもの。
すべてに干渉してきて、僕をコントロールしようとする。
母の口癖は「あなたのために言っているの」
僕のためではなく、あなたのエゴを押し付けているだけだと心の中で反発した。けれど、口にも顔にも出さずに我慢したのは、再婚した父のため。
だが頭を叩かれたことで、爆発した。
母が今までしてきたことを、父に訴えた。父は、テレビを見ながら言った。
「子育ては大変なんだ。寝不足で気が立っていたんだろう。悪気はないんだ。許してやれ」
「僕より、母さんの味方をするんだ……」
「家族なんだ。仲良くやっていこう」
父は昔からそうだった。気の強い祖母に母がいじめられていても、助けなかった。
父は面倒な事を嫌って、関わらない。そういう人だとわかっているのに、なにを期待していたのだろう。
家を飛び出した。十二月の夜の下を歩く。
透明人間になったように感じる。僕がなにを考え、なにを思い、なにに傷ついているのか。誰も興味なんてない。
学校のカウンセラーに、相談すればいいとは思う。けれど卑屈な性格が、話を聞いてもらっても意味ない。あの母親が変わるわけないし、父が味方することもないと諦めてしまっている。
冷たい夜気とともに、みじめさを飲み込む。
「めぐみさんに会いたい……」
忘れられない思い出がある。
僕は、なんでもないふりをするのが得意。だから、父も祖父も学校の先生も友達も近所の人も、めぐみさんの家族も、昨日の僕と今日の僕が違うことに気がつかなかった。
それなのに、めぐみさんだけが気がついた。
「裕史、どうしたの? 目が暗いよ。なにかあった?」
「なんでもない」
「本当に?」
「うん。大丈夫」
「我慢しているのを、大丈夫っては言わないよ」
目の奥がカッと熱くなった。
なんでもないふりをすることを選んだのは自分なのに、本当は、気がついてほしかった。
「……お母さん。癌が再発した……」
母を心配させないために、落ち込む父と祖父を励ますために。涙を見せずに、静かな笑顔を取り繕った。
でも本当は、泣きたかった。叫びたかった。
「怖いんだ! お母さんが死んだら……」
涙をこぼす僕を、めぐみさんは抱きしめてくれた。背中をトントンと叩いてくれた。
めぐみさんの温もりと手のリズムに、落ち着くことができた。
母が亡くなった日。めぐみさんは言った。
「私はいなくならない。裕史のそばにいるよ」
それなのに、事故でいなくなってしまった。
初恋の人はもう、この世にいない。彼女への想いは届くことなく、消えることもなく。
僕は宙ぶらりんな気持ちを抱えたまま、生きている。
◇◆◇◆
僕は、義母が望む教師の道を歩んだ。精一杯の抵抗は、義母がなりたかった中学校の先生ではなく、高校の歴史教師になったこと。
僕は、人との間に境界線を引くのがうまくなった。境界線の向こうに入らないし、他人も入れさせない。おかげで傷つかなくなり、生きるのが楽になった。
だが、境界線の内側にスッと入ってきた人物がいる。その人物は、僕の心をかき乱す。
彼女の名前は、渡瀬友那。
彼女の明るい笑顔は、警戒心を解いてしまいたくなる不思議な魅力がある。
彼女と話していると、自分は透明人間でなく、実体のある人間であることを感じる。
それでも僕は丁寧語を崩すことなく、教師と生徒という一線を跨がせないよう注意を払う。
ある朝。僕は目を疑った。
「今年、文化祭なんです! 新聞部で事件を起こして、犯人は誰だ! っていう謎解きはどうかなって考えているんですが、どう思いますか?」
朝の日差しのような明るい笑顔を向けてきた彼女に、めぐみさんを重ねてしまった。
前々から、雰囲気が似ているとは思っていた。
「どうしました? 私の歯にアオサでもついています?」
「笑った顔が……いいえ、なんでもないです」
僕は誤魔化し、早足で学校に向かう。彼女は小走りでついてきた。
「急ぎの用があるんですか?」
「巻き込まれたくないだけです」
「冷たーい! 下敷きになってくれたっていいのに」
「お断りです」
「学校までこのスピードで歩くんですか? 疲れて死んじゃう!」
「自分もです。ゾンビになって、授業をするかもしれない」
「おもしろそう! 一緒にゾンビになりましょう!」
「冗談です」
「そうなんですか? 先生って楽しい人ですね」
「…………」
楽しいのは君だよ、と言いたい。
渡瀬さんと話すのは楽しくて、困ってしまう。
快活な雰囲気。屈託のない明るい笑顔。話し方。話す内容。仕草。人の境界線にスッと入ってくるうまさ。
「めぐみさんと似ている。似ているところが多すぎる。……君はいったい、誰?」
単なる偶然なのだろうか。
偶然という言葉で片付けたくない、自分がいる。




