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二十年後の約束  作者: 遊井そわ香
第四章 冴木先生の心にいる人
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混ぜ合わせた恋心

 先生は私の膝の裏に手を当てると、立ち上がった。


「おんぶできた」

「むうっ! もしかして、本当に体重が百キロあると思った?」

「そうではなく、ただ素直におんぶできて良かったと思っただけです」

 

 私と先生を隔てるものは、互いのシャツだけ。薄い生地のシャツ越しに感じる体温と匂いが、心の深部にあるものを掘り起こす。

 私はそっと、先生の首の後ろに鼻を寄せた。


 匂いには、記憶を呼び覚ます効果がある。

 沈丁花の匂いは、母と甘い香りを辿って夕暮れの道を歩いた日の思い出と重なる。銀杏の臭いは、亡くなった祖母の手作り茶碗蒸しを思い出させる。 

 それと同じように、先生の匂いが記憶の扉を開ける。


 立てないと、半べそをかいためぐみ。ぴろりんはおんぶしようとしたが、よろけて立てなかった。

 めぐみはぴろりんの気持ちが嬉しかったし、彼の背中と匂いを好きだと思った──……。



「ねぇ、先生。もしかして、めぐみをおんぶしたことがある?」

「はい、一回だけ。どうしてそんなことを聞くんですか?」

「別に……。なんとなくです」


 めぐみとぴろりんが過ごした時間を知らなくても、魂には刻まれている。

 私は、先生の背中に懐かしさを感じている。この匂いに会いたかったと、自信を持って言える。

 懐かしいという感覚は、遠い昔の記憶が迎えにきてくれた証なのかもしれない。

 めぐみと仲直りしよう。意地を張るのも、嫉妬するのもやめよう。

 私の冴木先生が好きと、めぐみのぴろりんが好き。それを一つの瓶の中で混ぜ合わせて、『冴木裕史が大好き』というラベルを貼ろう。


 先生の首に回した手に、ギュッと力を入れる。

 横断歩道の信号が赤になり、先生は立ち止まった。


「渡瀬さん。さっき、自分じゃなくてめぐみさんが生きていたら良かったのにと言ったけれど、あれはどういう意味で言ったの?」

「自己解決したので大丈夫です」

「いや、聞きたいです。聞かなかったら、後悔すると思うので」


 意外すぎる返答に、私は先生の横顔を見た。


「先生が食いつくなんて、初めて。どうして?」

「質問を寄越さないでください。答えて」

「いやだーっ! 答えたくなーい! 心が狭いって思われたくなーい!」

「心が狭いことを考えたんですか?」


 返事をする代わりに足をバタバタと上下に動かすと、先生は二、三歩よろけた。

 横断歩道の信号が青になり、先生は歩き出した。


「おとなしくしてください。で、さっきの質問はどうなりました?」


 私は迷った末に、前世がめぐみであることを遠回しに告げる覚悟を決めた。

 先生の右耳を塞ぐと、その耳のすぐそばで秘密を告白する。


「めぐみに嫉妬したんです。渡瀬友那だって、ぴろりんとの思い出がほしい」


 耳を塞いでいた手を離す。

 聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。どちらなのかわからないが、先生は聞き返してこなかった。


「着きました」


 ドラッグストアの前で、背中からおろされた。右足のサンダルの踵が取れているので、ぴょこぴょこと歩く。

 怪我をしている私に、ドラッグストアの女性店員は親切な対応をしてくれた。店にある椅子に座らせてくれ、傷口をポンプボトルの水で洗い流してくれた。

 先生が買ってくれた絆創膏を、膝頭に貼る。

 先生は強力接着剤も買っていて、取れてしまったサンダルの踵を直してくれた。


「ありがとうございます。この御恩は、一生忘れません」

「忘れていいです。でも恩返ししたいなら、テストの点数で返してください。百点を期待しています」

「ごめんなさい。一生恩返しできません」


 私は笑い、先生も笑った。

 無表情だった先生が笑っていることに嬉しくなる。

 ぴろりんの笑顔を取り戻したいと思っていた。そのためにはどうすればいいのか、悩んだ。めぐみを忘れること、他の女性と幸せになること。そういったことを考えたけれど、そうではないのかもしれない。

 渡瀬友那でも、ぴろりんを笑顔にできる──。



 ドラッグストアを出て、先生と歩く。


「ねぇ、先生。パスタ屋で一緒にいた人、元カノ?」

「まぁ、そうですね」

「ヨリを戻すの?」

「気になりますか?」

「すっごく気になります!」


 先生は一呼吸置くと、普段と変わらない落ち着いた口調で言った。


「断りました」

「え?」

「あの場で断りました」

「本当に? 私を騙そうとしている?」

「渡瀬さんを騙してどうするんですか」

「本当に?」

「本当です」

「どうして?」

「好きになれるかもしれない。そう思って付き合ったけれど、うまくいかなかった。復縁しても同じだと思うので」


 私は立ち止まると、肩から斜めにかけている鞄の紐を両手で握った。

 数歩遅れて先生も足を止め、見つめてきた。

 私は大きく息を吸うと、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「恋人を作らないでください。私が高校を卒業するまで、待ってほしいんです」


 好きだと言わないだけで、これは告白。

 先生の反応が怖くて、私はさよならも言わずに逃げ帰った。



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