近いのに、遠い
夢の中で、私はめぐみだった。だから、めぐみの感情──兄に腹が立ったとか、雪遊びが楽しかったとか、川遊びで流されそうになって怖かったとか。
そういった感情は共有したが、めぐみの性格までは知ることがなかった。
私はめぐみとぴろりんの思い出だけでなく、めぐみのことさえ知らない。
どん底に突き落とされて無言になる私と、話し続ける先生。
「たまに思い出すんです。なんてことのない、些細なことなのですが……。めぐみさんが僕の部屋に遊びに来て、扇風機の前で『ワレワレハ宇宙人ダ』って言ったことがあった。僕は、この人は中学三年になっても子供と同じことをするんだって、おかしかった。肝試しもそう。めぐみさんは怖がりだから、無理だと思った。そしたら案の定、泣いた。この人は何歳になっても変わらない。そのことが、妙に嬉しかった」
「変わらないのが、嬉しいの?」
「成長するつれ、人は変わる。けれど、僕はめぐみさんの単純なところが好きだったから、そこは変わらないでほしかった」
「単純なのがいいの?」
「そういうわけではないけれど。僕は難しく考えがちだから。めぐみさんと話していると、物事って案外シンプルなのだと楽になった」
物事は案外シンプルだとの言葉が、胸に響く。
私は今、複雑に考えている。めぐみの影響を受けていようがいまいが、どちらでもいいのでは? 大切なのは、今の私の気持ち。
光が差した心持ちで、先生の話に耳を傾ける。
「夏休み明け。僕の顔を見て、めぐみさんが逃げたことがあった。肝試しが原因だと思ってトレーニングを始めたけれど、本当にそれが原因だったのかはわからない。僕は臆病だから、聞けなかったこと、言えなかったことがたくさんある。どうして、めぐみさんを花火大会に誘ったのか。理由を聞かれた。引越しの話をするためだけど……もう一つ、話したいことがあった」
先生は後悔混じりの吐息をついた。
「千葉に引っ越すけれど、夏休みには必ず遊びに来る。だからまた、一緒に花火を見よう。……そう、言おうと考えていた」
先生は、雨脚が弱まった風景を見ている。私も先生を見つめるのをやめ、正面に顔を向けた。
先生はすぐ隣にいる。それなのに、遠い。
ぴろりんが引っ越した後も、二人は会うことができた。交流を続けた二人は、恋人になり、結婚して、子供ができて……そういう未来があったはず。
胸がピリッと焼ける。
──めぐみが生きていたら、良かったね。そうしたら、冴木先生の隣にいるのは、私じゃなくてめぐみ。そのほうが良かったよね。私じゃなくて、めぐみといるほうが、先生は幸せだったよね……。
涙がブワッとあふれる。両手で顔を覆った私に、先生が慌てた。
「渡瀬さん!? 泣かせるつもりはなかったのですが、すみません!」
めぐみは裏表のないいい子だったが、私は違う。先生が私の涙に動揺してくれていることに、独り占めできたと嬉しくなる。
──ねぇ、先生。めぐみじゃなくて、渡瀬友那を見てよ。私が先生の一番になりたい。前世の私じゃなくて、今の私を見て。
私は愚かだ。及川めぐみに嫉妬して、対抗意識を燃やしている。まるで、自分の影に決闘を挑んでいるような滑稽さ。
好きな人の眼差しの先にある、永遠に変わることのないものへの嫉妬。
それは、江戸川乱歩の短編小説『人でなしの恋』を思い出させる。
愛する人の眼差しの先にあるものは、生きていない。純粋な美しさを保つそれに比べ、嫉妬に身を焦がして愛されたいと願う自分は浅ましく、醜い。
生きている者は嫉妬し、荒れ狂う感情に翻弄される。
生きていないものは気高く、無垢で、美しい。
生きている限り、生きていないものに勝つことができない。荒れ狂う感情の終着点を見出せない。
愛する人を失うか。それとも諦めて、愛されることから身を引くか。
私は身を引くことにした。というのは言い訳で、これ以上情けない姿を晒したくなくて、逃げることにした。
「帰ります!! じゃ!!」
雨が上がり、明るい日差しが落ちている。
歩道に行き交う人々に紛れて、潔く消えようと考えた。それなのに、今日は厄日らしい。
「痛っ!!」
ヒールの高いサンダルと雨上がりの歩道の相性は、最悪。
走り出してわずか五メートルで、派手に転んでしまった。
私は痛さにうめきながら、濡れているコンクリートに手をついて起き上がる。ショートパンツなので、直接膝頭を擦りむいてしまった。血が滲んでいる。
「渡瀬さん、大丈夫ですか? ……大丈夫じゃなさそう」
先生は怪我をしている箇所を確認し、右足に視線を落とした。右サンダルのヒールが、靴底から剥がれている。
私は情けなさと惨めさと痛みにえぐえぐ泣きながら、余計なことを口走る。
「グスっ。私じゃなくて、めぐみが生きていたら良かったですよね……」
「…………。あそこにドラッグストアがある」
先生は周囲を見回すと、大通りの反対側にあるドラッグストアを指差した。
「背中に乗って」
「えっ?」
「おんぶします」
背中を向けた先生に、慌てふためく。
「無理です無理です! 私、重いんで!!」
「百キロぐらい?」
「そんなにないですーっ!!」
「通行人の邪魔だから、早く」
「あ、はい。お邪魔します」
歩道の真ん中にいる私たちを、人々が避けていく。確かに邪魔だ。
私は恐る恐る、先生の背中に乗った。




