柳先生
大学受験を控えた高校三年生は忙しい。夏休みは、ほぼ毎日塾通い。朝から晩まで勉強漬け。
こんなに勉強をしているのに、賢くなっている気がしないから不思議だ。それどころか勉強をすればするほど、自分の能力の限界と、上にいる人たちの天才ぶりに落ち込む。
先日の模擬試験、国語の点数が悪かった。
私立大学を希望しているだけでも申し訳ないのに、浪人なんてしたら母に合わせる顔がない。
担任の先生が「夏休みに一気に伸びる子がいるから! 安全圏にいるからといって、のんびりしてはダメよ!」と、発破をかけた意味がわかった。
みんなが頑張っている。勉強以外のことに気をとられる暇などない。
そんな中、麻衣からランチの誘いがあった。気分転換にちょうどいい。
待ち合わせは、駅前のパスタ屋。眼科に行ってから来る麻衣のために、店内に入って待つ。
窓際のテーブル席に座って、外を眺める。日差しは強く、通りを歩く人々の顔は連日の猛暑にバテている。
その人混みの中に、見知った顔があった。
「柳先生?」
170センチに届かない、小柄な体型。けれど顔が小さく、手足が長い。そのせいで、身長の低さが気にならない。
柳先生はキツネ顔で、美男というわけではない。だが、柳先生には不思議な魅力がある。
柳蒼眞先生は、中学校の音楽教師。私は吹奏楽部に入っていたので、部活の顧問でもあった。
柳先生は当時、二十代後半。何気ないポロシャツでも、よく見れば有名ブランド品だったりと、おしゃれな人だった。
生徒たちと他愛ない話をしては、よく笑っていた。その笑顔が少年っぽくて、私だけではなく他の生徒たちも柳先生に親しみを持っていた。
背が低いし、顔がいいわけでもない。けれどピアノがやたらとうまくて、情熱的なピアノの調べが、柳先生を芸術家に仕立てあげていた。
私が中学三年にあがるときに、柳先生は隣の市の中学校に移った。それ以来、先生に会っていない。
だから、柳先生の姿を見るのは四年ぶり。
パスタ屋の窓から見える四角い風景は、狭い。柳先生はあっという間に視界から消えた。それでも、四年前に比べて痩せたのがわかった。
「仕事で忙しい? それとも、子育てが大変とか? まさか病気じゃないよね?」
柳先生は、産休の先生の代理で入った深山静香先生と結婚した。
それを知ったのは、担任の先生がホームルームで報告したから。
「去年いた音楽の柳先生と国語の深山先生の結婚式に、昨日行って来ました。もうすぐ、お子さんが産まれるそうです」
その日の放課後。吹奏楽部の三年生四人で、三年三組に集まった。
話の内容は、柳先生と深山先生のこと。
「深山先生と、できちゃった婚なんてびっくり!」
「あの二人、出会ってすぐに付き合ったっていうこと?」
「深山先生って、大手不動産会社の娘らしいよ。お金目的だったりして!」
「柳先生って、ブランド物好きだもんねー。俺は生徒のためにかっこいい先生でいるって、言ってたし!」
ワイワイ盛りあがっていた空気を、高宮実里が壊した。
「深山先生って、いかにも箱入り娘って感じでおっとりしていたじゃん。柳先生に騙されて可哀想。どうせそのうち、別れるよ」
実里は柳先生と仲が良かった。それなのにどうして悪く言うのか、わからなかった。
だが実里がトイレに行って場を離れた隙に、他の子が教えてくれた。
「嫉妬だね。実里って、年上好きじゃん。柳先生が好きだったんだよ。取られたーって感じで、おもしろくないんだよ」
納得した。だからその後、友達と別れて実里と二人で帰っても、柳先生の名前を出さなかった。
それなのに、実里のほうから話を振ってきた。
「私ね、柳先生が好きだった」
「あ……そうなんだ」
私は初めて聞いたフリをした。
実里は夕焼け空を見上げながら、告白を続けた。
「私ね、親のことで悩んでいたんだ。そのことを柳先生に相談しているうちに、どんどん好きになっちゃって。先生が『高宮は先生のことが好きだもんな』って、冗談で言ったとき。私『そうなんです』って答えた。その日から、音楽準備室に鍵をかけて、二人で会っていた」
「えっ……、あの、付き合っていたわけじゃないよね?」
「私は付き合っていると思っていた。キスしたから」
絶句した私に、実里は泣き顔を向けた。
「学校を転勤するときに、『もう会えない』って言われた。嫌だって泣いたら、『学校の先生だから、好きなだけ。一時的な気持ちだよ。同じ年齢の男子に目を向けてごらん』って諭された。しつこくして嫌われたくなかったから、別れを受け入れた。だけど、高校生になったら絶対に会いに行くって決めていた。それなのに、深山先生と結婚だなんて……」
中学生にキスをした柳先生を気持ち悪いと思った。けれどそれを実里に言うわけにはいかず、「大変だったね」と無難な慰め方をした。
実里は、能面のような顔になった。底にドロドロしたものを秘めているのに、無表情。
「あの人。私と付き合いながら、深山先生とも付き合っていた。二股をかけていた。計算したの。私とキスしたときには、深山先生のお腹には赤ちゃんがいた。最低。死ねって思う」




