めぐみさんとめぐみ
冴木先生と親しくするのを、やめた。
朝は十五分遅く家を出て、先生に会わない。新聞部の用事で社会科準備室を訪ねたら、用件のみ話して退室する。
模範的な生徒と先生の距離感である。
それなのに……。
「あーぁ、つまらない」
明日から、夏休み。それなのに気持ちがモヤモヤして、夏休みになるのが嬉しくない。
受験生とはいえ夏休みが楽しくないだなんて、人生の末期症状だ。
私は新聞部の部室に入ると、女子バスケットボール部を引退した主将へのインタビュー原稿を二年生に渡した。
新聞部の部室を出ると、十五分前と同じセリフを吐く。
「あーぁ、つまらない」
つまらないを解消する術を知っている。社会科準備室に行って、冴木先生とおしゃべりを楽しめばいいのである。
けれど私は模範的な生徒なので、おとなしく塾に向かうことにする。
廊下の窓が開いている。けれど入ってくるのは風ではなく、ミンミンゼミの合唱。
「暑いー。溶けるー。つまらないー。欲求不満ー」
暑さで、語尾が溶けて伸びる。
ミンミンゼミの鳴き声に張り合うように、「つまらないつまらない」と繰り返していると、前方から冴木先生が歩いてきた。
心臓がドキンと跳ねる。アドレナリンが放出され、体温が上がる。
偶然の出会いに嬉しくなる。けれど、反対方向へと走って逃げる。
「やっぱり無理。好き!」
学校の先生と恋愛なんてしない。
そう決めて、冴木先生を好きにならないために避けた。
けれど、無駄な抵抗だった。好きにならないと踏ん張った時点ですでに、恋に落ちていた。
階段の踊り場にある壁の凹みに体を滑り込ませると、鞄で顔を隠す。
気づかずに通り過ぎてくれますように! と祈る。
呼吸を押し殺してじっとしていると、近づいてきた足音が止まった。
「渡瀬さん?」
「ミーンミンミン。私はセミです」
「…………」
冴木先生なら「なにやってんですか」と、呆れたツッコミをいれてくれる。
そう思ったのに、シーンと静まり返ったまま。
訝しんで、顔を隠していた鞄を胸元まで下ろす。
先生は両目を大きく見開いて、固まっている。まるで、メドューサに石にされてしまった人のよう。
「どうしたんですか? 本物のセミだと思った?」
「そんなわけないです。そうでなく、どうしてセミに?」
「別に意味はないですけど。しいて言えば、夏だから?」
メドューサの呪いが解かれ、先生は困ったように頭を掻いた。
「渡瀬さんって、不思議な人ですよね」
「そうですか? 不思議ちゃんだと言われたことはないです」
「不思議ちゃんではなく、ある人にすごく似ている。笑顔とか、元気なところとか、話の内容とか……」
「ふーん、誰ですか?」
「めぐみさんです」
私はひゅっと息を飲むと、視線を泳がせた。
「へ、へぇー、そうなんだぁ。ふーん」
「及川めぐみさんの親戚だったりしますか?」
「いや、親戚ではないと思います」
「では、知り合い?」
「違います」
「そうですか」
前世という発想にはならないらしい。
私の前世がめぐみだと打ち明けて気まずい空気になるよりも、黙っていたほうがいいと思った。なにより、突然のことで心の準備ができていない。
そういうわけで、私は先生から視線を逸らしたまま、ペコリと頭を下げた。
「帰ります。さようなら」
「渡瀬さん! クッキー、ありがとうございました。美味しかったです」
「食べたの?」
「はい。ほどよい甘さで美味しかったです。お菓子を作るのが上手なんですね」
クッキーを食べてくれた。美味しいって喜んでくれた。お菓子を作るのが上手だと褒めてくれた。
嬉しくて、舞い上がってしまう。
へへっと笑った私に、先生は目を細めた。
「お礼を言うのが遅くなって、すみません。もっと早く言いたかったのですが、避けていたようだったので」
「ひゃっ!? そ、そそ、そんなことないですよぉ〜!」
「渡瀬さんもめぐみさんも、僕を避けるのが好きですよね。けっこう、傷つきます」
泳がせていた視線を、先生の上に留めた。
先生が自分から胸の内を晒してきたことに、驚く。
「すみません……」
「渡瀬さんが嫌がることをしてしまったなら、謝ります」
「違うんです! 先生はなにも悪くないです! 私が、その、ちょっと思うところがあって……」
今まではっきり話すのは私で、曖昧だったのは先生。嘘は許さないぞとばかりに見つめるのは私で、視線を逸らせていたのは先生。
それなのに、立場が逆転してしまった。
私は曖昧にモゴモゴと口ごもりながら、壁のシミを見る。
「ごめんなさい」
「なにをどう思うところがあったのですか?」
「馴れ馴れしかったなぁとか、生徒と先生の距離感って大切だよね、とか……」
「それが避けた理由? 嘘ついていない?」
私は口を尖らせて、先生を上目遣いに睨む。
「質問攻めにしたり、追及するのは私の仕事! 真似しないでください!」
先生は肩を震わせて笑うと、笑いの余韻が残ってる眼差しを私を向けた。
「僕はめぐみさんを、さん付けで呼ぶ。それなのに、渡瀬さんはめぐみと呼び捨てにする。どうして?」
「えっ!?」
「親戚じゃないんですよね? 知り合いでもない」
「あ、あーっ、じゅ、塾の時間なんでっ! 帰ります!!」
階段を駆け降りる。
探偵に追い詰められた犯人は、こんな気分なのだと思った。




