嘘つき
プライベートに立ち入るのは、生徒と先生の境界線を超えている。ルール違反。
わかっている。でも先生の笑顔を取り戻し、幸せになってもらうためには、立ち入らないといけない。
話したくないと拒絶されても、詮索するなと叱られても、私は聞かなくてはいけない。
嫌な顔をされるのを覚悟したが、予想に反して、先生はうっすらと笑った。
「渡瀬さんは、その話題が好きですね」
「はい。先生の過去に興味があるんです」
「おもしろい話はできないです」
「笑いたいわけじゃないんで、大丈夫です」
「なんで、つまらない人間の過去なんか……」
「つまらなくないです! 先生は自分で思っているより、おもしろい人だと思います!」
「おもしろい話はできないです」
「笑いたいわけじゃないんで……って、ループしています!!」
先生がボケてくれた。心を開いてくれたことが嬉しくて、ニマニマしてしまう。だが、浮かれた気持ちは瞬時にして消えた。
先生の目は、暗い。
話したくないから、会話をループしただけなのかもしれない。
「すみません。話したくなかったら、話さなくていいです」
「今でも忘れられない……か。どうだろう。彼女が亡くなって、二十年になろうとしている。忘れたくなくても、忘れていく。最初の頃は、それが怖かった。思い出が薄れないよう、記憶を何度もなぞった。だけど……。年に一回、お墓参りに行って彼女のお兄さんと話すんです。毎回、言われる。お墓参りに来なくていい。めぐみのことを忘れて、幸せになっていいんだぞって」
「…………」
「めぐみさんを忘れて幸せになっていいのだと言われるたび、申し訳なくなる。幸せそうに見えないのは、僕自身の問題。めぐみさんは関係ない。僕が単にうまく生きられていないだけなのに、めぐみさんを言い訳にしている。ずるい人間なんです。……すみません。話しすぎました」
先生の口から、疲労の濃いため息がこぼれる。
ちょうどそのとき。先生の手の内にあるスマホが鳴った。私の母から連絡があるかもしれないと、先生は手にスマホを持っている。
私は隣にいるから、画面に表示された名前が見えてしまった。
『内田 夏帆』
先生はスマホの画面を見たまま、止まっている。
「電話ですよね? 出てください」
「いや、いいです」
「遠慮しなくていいです。大切な話かもしれないし」
「後で電話します」
着信音が切れた。私と先生は黙ったまま。
雨がしとしとと降っており、帰宅ラッシュで車も人も多い。それなのに、私と先生の間にある空気は静か。
「彼女さんですか?」
「違います」
「誰ですか?」
「大学時代の友人です」
「好きなんですか?」
「突っ込んできますね」
「だって、知りたいんだもん……」
先生は少しの沈黙を挟んでから、「友達です」と素気なく答えた。
それが私には嘘を隠しているように聞こえて、笑ってしまった。
「先生って、嘘をつくのが下手ですね。もしかして、元カノですか?」
「…………」
「否定しないんだ……」
私は先生に何を期待していたのだろう。
疲れたオーラを放っている、冴えない冴木先生。
私もめぐみの兄も、めぐみを引きずっているのだろうと思い、めぐみを忘れていいのだと許可を出している。
でも、そうじゃない。
めぐみが亡くなって、十九年。記憶も感情も薄れていく。先生の心にはもう、めぐみに対する特別な想いなんてない。
それでいいのに……。
──なんで私、死んじゃったのかな。生きていたら、ぴろりんの彼女になって、結婚して、そういう未来があったかもしれないのに……。
「渡瀬さん、大丈夫ですか?」
フェイスタオルを目元に当てた私に、先生が気遣わしげに声をかけた。
私は浅い呼吸を何度か繰り返すと、タオルを下ろした。
明るい笑顔と明るい声で、先生の腕を叩く。
「なーんだ! 彼女がいないっていうから、心配して損した! 元カノから電話が来るってことは、ヨリを戻す感じですか?」
「そういうんじゃないです。悩みを聞いているだけです」
「元カレに悩み相談するって……気にかけてほしいからですよ。ヨリを戻したいって言われたら、どうするんですか?」
「さぁ。どうしましょうか。……どうして泣くんですか」
涙が耐えてくれなかった。フェイスタオルで顔を覆う。
「めぐみのこと、忘れないって言ったくせに……嘘つき」
「いつ、僕がそんな話を……」
「友那っ!!」
母の登場に救われた。
収拾がつかないぐちゃぐちゃな心で話し続けていたら、先生を傷つけることを言ってしまっただろう。
母は何度も頭を下げて、先生にお礼を述べた。
「ほら! 友那もお礼を言いなさい!」
「ありがとうございました」
「では、これで失礼します。ありがとうございました!」
感情が高ぶりすぎて、逆に感情が抜け落ちた顔で先生を見つめる。先生はなにか言いたそうな、困惑した目を私に向けている。
私たちは会話を交わすことなく、離れた。
タクシーに乗るよう、母に背中を押される。
私は振り返ることなく、タクシーに乗り込んだ。
めぐみを忘れて、幸せになってほしい。ぴろりんを解放してあげたい。
そう願っていたのに、私は嘘つきだ。
めぐみを忘れないで。私以外の人と、幸せにならないで──。




