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二十年後の約束  作者: 遊井そわ香
第三章 恋に、さようならとこんにちは
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六月の雨の下

 私が先生を見つけるより先に、先生は私に気づいていたらしい。私の元へと、まっすぐに歩いてくる。

 驚いている眼差しから逃れるために、私はうつむいた。

 六月の冷たい雨に打たれている頭上に、黒い傘がかかる。


「渡瀬さん、どうしてここに? 転んで怪我をした?」


 気遣う優しい声に、涙腺が緩む。頬を流れる冷たい雨に、温かいものが混じる。


「なんで、怪我?」

「左の唇が痛そうだ」


 意識した途端、顔の左側が腫れぼったく、内側からジンジンと痺れるような熱を感じた。唇を動かすと、やはり切れているらしく、ズキリとした痛みが走る。


「傘はどうしたの?」

「ないです」

「…………」

「…………」


 先生は、話をどう続けたらいいのか困っている。私も、どう話したらいいのか困っている。

 私は先生に、笑顔しか見せたくなかった。渡瀬友那はいつも元気だって、呆れていてほしかった。こんな惨めな自分、知られたくなかった。


「なんでもないです。帰ります」


 先生を待つんじゃなかった。マンションに戻って、母の帰宅をおとなしく待っていればよかった。

 踵を返そうとして、左腕を取られる。先生はパッと手を離した。


「事情があって、ここにいるんだよね? 家に帰りたくない?」

「…………」

「なにかあったんだね? お母さんと喧嘩した?」


 首を横に振る。


「じゃあ、彼氏と喧嘩した?」

「先生。迷惑じゃなかったら、いえ、すごく迷惑だと思うんですけれど、母と連絡を取りたいんです。でもスマホを忘れちゃって。今の時間ならまだ、勤務先にいると思うんです。貸してもらえませんか?」

「いいよ」


 先生からスマホを借りると、母が勤務している病院を検索する。検索に出てきた番号に電話をかけ、応対した人に母の娘であることを伝える。

 不審人物からの電話だと怪しまれたらどうしようかと怖かったが、先生のスマホの電話番号を相手の人は復唱してくれた。

 おそらく、私の動揺や恐怖が電話を通して伝わったのだろう。「困ったことが起こった」という涙声に、演技ではないと感じたに違いない。


 十分後、母のスマホから電話がかかってきた。先生に修哉のことを知られたくなくて、離れた場所で話をする。

 先生がコンビニに入って行くのが見えた。

 修哉が家に押しかけてきて殴られたという話に、母は悲鳴をあげた。駅で待つよう、念押しされる。


「友那。電話を貸してくれた先生に、変わってくれる?」

「いいけど……。でも、彼氏に殴られたことは言わないで。先生には知られたくない」

「わかった」


 コンビニから戻ってきた先生にスマホを渡す。先生と母は一分ほど話をし、電話を切った。


「お母さんはなんて?」

「一人にさせるのは不安だから、そばにいてくれって」

「大丈夫なの?」

「ああ。特になんの用事もないから」


 先生が現れた瞬間、緊張が緩んだ。もう大丈夫だって、安心した。そのうえさらに、母と連絡が取れたことで軽口を叩く余裕が生まれる。


「金曜の夜なのに寂しいね。先生って、彼女いないの?」

「残念ながら」

「本当に? えっ、どうして? 彼女いらないから作らないの? それとも、欲しいのにできないの?」

「詮索しなくていいから」

「知りたい!」

「知らなくていいです!」


 冴木先生はムッとした口調で、私の頭にタオルを乗せた。

 コンビニから出てきた先生が、袋を持っていることに気づいていた。でもまさか、その袋の中からフェイスタオルが出てくるとは思わなかった。


「あとこれ、どうぞ」


 コンビニの袋からもう一つ、ホットココアが出てきた。冷えてジンジンと痺れている指に、スチール缶は熱すぎた。


「熱すぎて持てない!」

「冷やしますか」


 私たちはタクシー降り場が見える場所で、母を待つことにした。タクシーのテールランプが、しとしとと降る雨を赤く染めている。

 先生はしばらくホットココアの缶を手のひらで転がしていたが、


「多分、もう持てると思いますので」


 と、渡してきた。受け取ると、ちょうどいい温度。手が温まって、指先に血が戻ってくる。


「先生のことを知りたいって言ったら、怒ったよね?」

「怒っていないです」

「そう? ムッとしたように思った」

「君は生徒で、僕は先生。先生なんてものは、学校にいるときの姿だけ知っていればいいんです。私生活を知らないほうがいい」

「そうかもしれないけれど……」


 私はココアを一口飲むと、ほぅーっと息を吐きだした。温かさと甘さが、じんわりと身体に染みる。


「気になることがあるんです。先生は話したくないと思うけれど。これで最後にするから、教えてください。代わりに、私の秘密を教えます」

「教えてくれなくていいです」

「ううん! 教える。だって先生の秘密を暴いて、私はダンマリなんて、ずるいもん。私がどうしてここにいるかというと、彼氏に乱暴されたからです。別れたいって言ったら、家に押しかけてきて、殴られた。でも、逃げました! だから大丈夫です。だけど、電話も鍵もなくて……。そういった事情でした」


 先生はどんな反応をするだろう。窺い見ると、先生は無表情だった。

 他人事だしね。そう思っていると、先生は息を深々と吐きだした。


「全然大丈夫じゃないです。渡瀬さんの顔、痛々しいことになっている。殴るなんて、最低です」

「先生は、嫌なことがあっても我慢できる人? 絶対に手をあげない?」

「絶対とは保証できませんけれど、少なくとも、人を叩いたり殴ったりしたことはないです」

「そうなんだ。偉い」

「偉くないです。普通です」

「普通じゃないよ。私の親は叩いていたもん。あ、私じゃなくて、夫婦喧嘩でね」


 離婚する前。父は母を叩いた。母もやり返した。それを間近で見ていたので、頭に血が昇ると手が出てしまうのはしょうがないと思っていた。

 でも先生は、一度も叩いたことがないらしい。偉い。


「先生の秘密を教えてください」

「なにを知りたいんですか? 話すとは約束できませんが」

「花火大会に誘った女の子のこと、今でも忘れられないですか?」

お読みいただき、ありがとうございます。

この先、一日一回の更新になります。

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