六月の雨の下
私が先生を見つけるより先に、先生は私に気づいていたらしい。私の元へと、まっすぐに歩いてくる。
驚いている眼差しから逃れるために、私はうつむいた。
六月の冷たい雨に打たれている頭上に、黒い傘がかかる。
「渡瀬さん、どうしてここに? 転んで怪我をした?」
気遣う優しい声に、涙腺が緩む。頬を流れる冷たい雨に、温かいものが混じる。
「なんで、怪我?」
「左の唇が痛そうだ」
意識した途端、顔の左側が腫れぼったく、内側からジンジンと痺れるような熱を感じた。唇を動かすと、やはり切れているらしく、ズキリとした痛みが走る。
「傘はどうしたの?」
「ないです」
「…………」
「…………」
先生は、話をどう続けたらいいのか困っている。私も、どう話したらいいのか困っている。
私は先生に、笑顔しか見せたくなかった。渡瀬友那はいつも元気だって、呆れていてほしかった。こんな惨めな自分、知られたくなかった。
「なんでもないです。帰ります」
先生を待つんじゃなかった。マンションに戻って、母の帰宅をおとなしく待っていればよかった。
踵を返そうとして、左腕を取られる。先生はパッと手を離した。
「事情があって、ここにいるんだよね? 家に帰りたくない?」
「…………」
「なにかあったんだね? お母さんと喧嘩した?」
首を横に振る。
「じゃあ、彼氏と喧嘩した?」
「先生。迷惑じゃなかったら、いえ、すごく迷惑だと思うんですけれど、母と連絡を取りたいんです。でもスマホを忘れちゃって。今の時間ならまだ、勤務先にいると思うんです。貸してもらえませんか?」
「いいよ」
先生からスマホを借りると、母が勤務している病院を検索する。検索に出てきた番号に電話をかけ、応対した人に母の娘であることを伝える。
不審人物からの電話だと怪しまれたらどうしようかと怖かったが、先生のスマホの電話番号を相手の人は復唱してくれた。
おそらく、私の動揺や恐怖が電話を通して伝わったのだろう。「困ったことが起こった」という涙声に、演技ではないと感じたに違いない。
十分後、母のスマホから電話がかかってきた。先生に修哉のことを知られたくなくて、離れた場所で話をする。
先生がコンビニに入って行くのが見えた。
修哉が家に押しかけてきて殴られたという話に、母は悲鳴をあげた。駅で待つよう、念押しされる。
「友那。電話を貸してくれた先生に、変わってくれる?」
「いいけど……。でも、彼氏に殴られたことは言わないで。先生には知られたくない」
「わかった」
コンビニから戻ってきた先生にスマホを渡す。先生と母は一分ほど話をし、電話を切った。
「お母さんはなんて?」
「一人にさせるのは不安だから、そばにいてくれって」
「大丈夫なの?」
「ああ。特になんの用事もないから」
先生が現れた瞬間、緊張が緩んだ。もう大丈夫だって、安心した。そのうえさらに、母と連絡が取れたことで軽口を叩く余裕が生まれる。
「金曜の夜なのに寂しいね。先生って、彼女いないの?」
「残念ながら」
「本当に? えっ、どうして? 彼女いらないから作らないの? それとも、欲しいのにできないの?」
「詮索しなくていいから」
「知りたい!」
「知らなくていいです!」
冴木先生はムッとした口調で、私の頭にタオルを乗せた。
コンビニから出てきた先生が、袋を持っていることに気づいていた。でもまさか、その袋の中からフェイスタオルが出てくるとは思わなかった。
「あとこれ、どうぞ」
コンビニの袋からもう一つ、ホットココアが出てきた。冷えてジンジンと痺れている指に、スチール缶は熱すぎた。
「熱すぎて持てない!」
「冷やしますか」
私たちはタクシー降り場が見える場所で、母を待つことにした。タクシーのテールランプが、しとしとと降る雨を赤く染めている。
先生はしばらくホットココアの缶を手のひらで転がしていたが、
「多分、もう持てると思いますので」
と、渡してきた。受け取ると、ちょうどいい温度。手が温まって、指先に血が戻ってくる。
「先生のことを知りたいって言ったら、怒ったよね?」
「怒っていないです」
「そう? ムッとしたように思った」
「君は生徒で、僕は先生。先生なんてものは、学校にいるときの姿だけ知っていればいいんです。私生活を知らないほうがいい」
「そうかもしれないけれど……」
私はココアを一口飲むと、ほぅーっと息を吐きだした。温かさと甘さが、じんわりと身体に染みる。
「気になることがあるんです。先生は話したくないと思うけれど。これで最後にするから、教えてください。代わりに、私の秘密を教えます」
「教えてくれなくていいです」
「ううん! 教える。だって先生の秘密を暴いて、私はダンマリなんて、ずるいもん。私がどうしてここにいるかというと、彼氏に乱暴されたからです。別れたいって言ったら、家に押しかけてきて、殴られた。でも、逃げました! だから大丈夫です。だけど、電話も鍵もなくて……。そういった事情でした」
先生はどんな反応をするだろう。窺い見ると、先生は無表情だった。
他人事だしね。そう思っていると、先生は息を深々と吐きだした。
「全然大丈夫じゃないです。渡瀬さんの顔、痛々しいことになっている。殴るなんて、最低です」
「先生は、嫌なことがあっても我慢できる人? 絶対に手をあげない?」
「絶対とは保証できませんけれど、少なくとも、人を叩いたり殴ったりしたことはないです」
「そうなんだ。偉い」
「偉くないです。普通です」
「普通じゃないよ。私の親は叩いていたもん。あ、私じゃなくて、夫婦喧嘩でね」
離婚する前。父は母を叩いた。母もやり返した。それを間近で見ていたので、頭に血が昇ると手が出てしまうのはしょうがないと思っていた。
でも先生は、一度も叩いたことがないらしい。偉い。
「先生の秘密を教えてください」
「なにを知りたいんですか? 話すとは約束できませんが」
「花火大会に誘った女の子のこと、今でも忘れられないですか?」
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