最低な愛
狭い玄関で、修哉と揉み合う。
私は修哉の胸を突き飛ばして、手前の部屋に逃げようとした。けれど修哉のほうが早かった。
私の肩を掴んで引き寄せると、顎を掴み、強引にキスしようとしてきた。
「イヤっ! 離してっ!!」
私は悲鳴をあげ、両手を突っぱねて拒絶する。けれど、修哉は私よりも十センチ以上も背が高いし、筋肉もある。
両手首を掴まれ、玄関の壁に背中を押しつけられる。その体勢のまま力をかけられ、私は壁と修哉の間に挟まれてしまった。
力づくで押さえ込まれ、逃げ道を塞がれる。恐怖で足が震える。それでも体をずらそうと、もがく。
「イヤ、イヤだってば!! やめてっ!!」
「つめて」
雨に濡れてしまった制服。揉み合ったせいで、修哉の服にも水分が移ってしまった。
その冷たさに、修哉は笑ったのだろう。だけど私は(なんでこの状況で笑えるの……)と目眩がする。
「トイレを借りたいって言ったのは、嘘だったの!?」
「嘘じゃない。借りる。その前に、キスしたい。最近キスしてなかったじゃん。寂しくてさ」
「なに言っているの? 別れるのに……」
「俺は別れない」
修哉の唇が微笑んだ。だが、瞳は氷のように冷たい。
修哉の片手は、私は両手首を拘束している。空いているほうの手で、修哉は私の顎を掴んだ。
「心を入れ替えるって言ったのは本当だ。嘘じゃない。俺たち、うまくいく。やり直そう」
顎を掴まれて、顔を背けることができない。目に溜まっていた涙が、頬を滑り落ちていく。
「イヤ……」
「強情だな。体でわからせないとダメな感じ?」
「なにを……」
「友那が待ってほしいって言うから、我慢していた。意味なかった。こんなことなら、無理矢理にでも抱けばよかった。そしたら、別れようなんて考えなかったかもしれないな」
的外れな発言に呆然とする。修哉は唇の片端を上げた。
「体が繋がると、心も繋がると思わない? 俺たちに足りなかったのは、体のコミュニケーションだと思うんだ」
修哉は私の耳元で囁いた。
「友那のすべてを手に入れたい」
私と修哉は、違う世界に生きているらしい。修哉の考える愛と、私の考える愛はまったく違う。
二年以上も一緒にいたのに、理解し合えないという絶望感。
修哉に両手首を掴まれている、その指先からは血が引いており、痛いほどに冷たい。けれど力を込めると、十本の指が動いた。
修哉は私の耳に近づけていた唇を、頬に落とした。狭い玄関に、リップ音が響く。
ゾワゾワとした寒気が這い上がり、身の毛がよだつ。けれど、じっと耐える。
私がおとなしくしていることで、気が緩んだのだろう。
修哉は、掴んでいた両手首を離した。
「イヤっ!!」
力いっぱいに、修哉を突き飛ばす。修哉はシューズボックスに背中を強打し、うめいた。
一番近い洗面所に逃げようとした。だが、修哉のほうが早かった。
「バカ女っ!!」
修哉は私の髪を掴むと、手をあげた。顔面に鋭い痛みが走る。目の前に星が散った。
私は衝撃と痛さで声をあげることができず、されるがままにもう一発叩かれた。
「ふざけんなっ! 来いっ!!」
修哉は私の右腕を乱暴に掴むと、部屋の中に連れて行こうと引っ張った。
「ヤダっ!! やめて、嫌だっ!!」
こんなの愛じゃない。単なる暴力。従いたくない。受け入れたくない。消えてほしい。
私は死に物狂いで、右腕を払い退けた。頭の中は真っ白で、心には憎しみしかなかった。
玄関にある傘立てから、傘を抜いた。
二発も顔を殴られたのだから、私だって手加減しない。そんな悪魔めいた意思で、修哉の頭に傘を振り下ろす。
「ぐっ!!」
修哉はくぐもった悲鳴をあげると、膝から崩れ落ちた。
「おまえ……」
すぐさま、外に飛び出す。
マンションの廊下は外壁がなく、外に開かれている。雨音がこだまする薄暗い廊下を走り、階段を駆け下りる。
外に飛び出し、行く当てもなく走る。雨水に混じって、口の中に血が入ってきた。顔を叩かれたときに唇を切ったのだろう。
闇雲に走っていたが、冷たく降る雨がざわつく感情を静めて、思考を取り戻させる。
「どうしよう、私……」
足を止め、一呼吸置いてから後ろを振り返る。
「なにも、持ってこなかった……」
玄関に、学校鞄を落とした。拾わないといけなかったのに、逃げることで精一杯で、考えが及ばなかった。
部屋の鍵もスマホも財布もない。
帰りたいが、修哉が待ち伏せしているかもしれない。二時間も待っていたのだ。部屋の中で私の帰りを待つことぐらい、容易いだろう。
部屋の明かりがついているかどうかで、修哉がいるかわかる。だがもしも、部屋の明かりを消して私を油断させ、部屋に入った途端に襲われたら……と、悪い考えが次から次へと浮かぶ。
「どうしよう……」
手元にやった手が震える。
修哉は傘で殴られて廊下に倒れた。私は玄関扉を背にしていた。あの状況では、外に飛び出すしかなかった。
だが実際に外に出てみれば、助けを求める手段がない。母の勤務先の病院も麻衣の家も、徒歩で行くには遠すぎる。タクシーを考えたが、殴られた顔で職場を訪ねたら母に迷惑をかけるように思えて、怖気付く。
制服のポケットに手を入れてみたが、なにも入っていない。しかし十円があったところで、母と麻衣の電話番号を暗記していないし、公衆電話がどこにあるかもわからない。
雨が降っているせいで、暗くなるのが早い。車のヘッドライトが行き交う中を、トボトボと歩く。
雨に打たれるがままの身体は熱を失い、震えの止まらない唇からは泣き声が漏れる。
「お母さんが帰ってくるまで、マンションの近くで待っていよう」
飲み会の話を聞いていないから、遅くならずに帰ってくるはずだ。
疲れてぼんやりとした視界に、明るい建物が映る。いつの間にか、学校の最寄り駅まで歩いてきていた。
駅に出入りする人たちを何気なく見ているうちに、ふと冴木先生が頭に浮かんだ。
「先生は帰った? それとも、これから帰るところ?」
くしゃみがでた。制服はずぶ濡れで、体の芯から冷えている。それでも私は、三十分だけ待ってみることにした。
先生は現れない。疲れが頂点に達し、諦めて、立ち去りかけたとき。
見上げた先に、冴木先生がいた。




