サエキヒロシ
サエキヒロシに会ったほうがいいのか、会わないほうがいいのか。
心が定まらないまま、高校三年生になった。
四月。新学期初の歴史の授業。
ぽかぽかとした昼下がりと、歴史の先生のボソボソとした話し声。
抗えない睡魔に、私はうつらうつらとした夢の中にいた。
夢の中で、私はいつも及川めぐみだった。めぐみの目を通して、世界を見ていた。
それなのに初めて、めぐみが他人になった。
めぐみは愛嬌のあるニコニコ顔で、渡瀬友那の両手を握った。
「ぴろりんは、すぐそばにいるよ」
すぐそばにいる?
疑問に頭を捻ったのと、前頭部に衝撃が走ったのがほぼ同時だった。
「いったぁーっ!!」
額に手を当てて叫んでから、しまったと後悔する。歴史の授業中だ。
私は頬杖をついて、こっそりと居眠りをしていたのだが、頬杖がずれてしまったらしい。机にもろに額をぶつけてしまった。
生徒たちの爆笑を浴びながら、歴史の先生に謝罪する。
「すみません」
「はい」
先生は無表情だ。疲れたオーラが漂う陰気さと、淡々とした授業の進め方。
歴史の先生ハズレだな、と思った矢先。隕石が落ちてきたかのような衝撃に襲われ、机をガタッと鳴らして立ち上がる。
「ちょっと待って!! 先生の名前って、冴木裕史ですよね!?」
「はい」
「なんだよ、友那。頭を打った衝撃で、先生の名前を忘れたのかよ」
男子からのツッコミが入って、どっと笑いが起こる。
私は急いで座ると、恥ずかしさから教科書で顔を覆った。
「やってしまった。恥ずかしすぎる」
居眠りをして机に額をぶつけたのもダサいが、授業中に興奮して立ち上がるなんて最悪。
だが、やってしまったことをクヨクヨしてもしょうがない。私は友達の北山麻衣から「無駄にポジティブ」との称号をもらっている。
そのポジティブさを発揮して、恥ずかしい出来事は忘れることにする。
一日の授業を終えると、私はすぐに校舎を出た。自転車を全速力で漕いで、家に帰る。
「早速『擬態』とあだ名をつけられた、冴えない冴木先生が、めぐみの会いたい人なの? 思っていた人と違う!!」
私は及川めぐみの目を通して、サエキヒロシを見てきた。黒縁眼鏡の奥にある瞳は優しく、笑顔が爽やかだった。穏やかで素直な少年といった感じ。
だから私は、大人になったサエキヒロシに良いイメージを持っていた。仕事も家庭も順調で、陽だまりのように明るい人物。
そういう想像をしていたのだが──。
「冴木先生って、暗そう。結婚しているのかな? 今度聞いてみよう」
私はマンションの八階に住んでいる。エレベーターの階数が昇っていくのを見て、階段を駆けあがった。気が急いで、待っていられない。
家に入るとすぐさま自分の部屋に向かい、本棚に目を走らせる。
「本に挟んだような記憶があるんだけど……」
私の本棚には、活字中毒の母が勝手に置いた本が並んでいる。本を近くに置くことで、いつか私が手に取り、本好きになってくれれば……という願いがあったらしい。
その甲斐あって、私も本が好きになった。特に、ミステリーとホラーが大好物。
「お気に入りの本に挟んだように思うんだけど……。あっ、江戸川乱歩!」
江戸川乱歩の作品の中でも、『人間椅子』『芋虫』『人でなしの恋』といった怪しい作品が好き。
愛を煮詰めていくうちに純度が狂った、歪な愛の世界。それはまるで、ひび割れた鏡のよう。何人もの自分がこちらを見ている。心に隠れていた狂気が、自分を見つめている。
常軌を逸脱している、万人には理解し難い歪な愛。それでもなお、崇高なるものを求め続ける。
江戸川乱歩短編集をパラパラと捲ると、折られた紙片が床に落ちた。紙を広げて、文字を追う。
『及川めぐみ。福島県。交通事故で、十五歳で亡くなった。祖父と祖母も一緒に亡くなった。両親と兄がいるっぽい。さえきひろしと花火を一緒に見に行く約束をしたらしい。でも見に行けなくて、それが後悔で、夢の中でいつも謝っている。めぐみはたまに、さえきひろしをぴろりんと呼んでいる』
夢の中の話なので、さえきひろしの漢字がわからない。
冴木裕史かもしれないし、佐伯宏かもしれない。または斉木浩志かもしれないし、三枝木博かもしれない。
『さえき』も『ひろし』も、漢字が複数ある。
「お手上げだーっ!」
さえきひろしという名前からでは、本人を見つけるのは難しい。及川めぐみと繋がって初めて、本人だとわかるだろう。
私は冴木先生を第一候補にして、及川めぐみとの関連を調べることにした。




