第九章 作られる判断
文書は、
静かに形を整えていった。
事実は、
すべて載っている。
虚偽はない。
捏造もない。
だが、
選ばれている。
何を書くか。
何を書かないか。
その取捨選択だけで、
判断は“存在したもの”に
なっていく。
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桐山は、
自分の指が
どこで止まるのかを
意識していた。
一行足せば、
説明になる。
一行削れば、
疑義が消える。
その一行の重さを、
誰よりも知っている。
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「当時の状況を鑑み、
総合的に判断した結果――」
その定型文を、
何度も書きかけて、
消した。
総合的。
それは、
説明の放棄に近い。
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別の文言を入れる。
「関係部署間での
協議を踏まえ――」
協議は、
確かにあった。
だが、
結論はなかった。
踏まえたのは、
沈黙だ。
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桐山は、
画面から目を離し、
天井を見る。
この文章は、
後から読む者に
安心を与えるだろう。
ちゃんと考えられている。
ちゃんと決められている。
そう思わせる。
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それが、
制度の求める正義だ。
だが、
それは真実か。
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翌日、
文書は回覧される。
修正意見は、
ほとんど出ない。
表現の微調整。
語尾の統一。
内容に関する指摘は、
一つもない。
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「よくまとまっています」
そう言われる。
褒め言葉だ。
だが、
桐山の胸は
軽くならない。
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まとまっている、
ということは。
疑う余地が
無くなっている
ということでもある。
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最終版が、
確定する。
決裁印が並び、
文書は正式な記録になる。
これで、
問い合わせは終わる。
前例も、
整う。
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そのはずだった。
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午後、
若手職員が
桐山のもとを訪れる。
顔色が、
少しだけ違う。
「……一件、
お伝えしておくべきことが」
声を落として言う。
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「例の文書、
もう引用され始めています」
早い。
想像以上に。
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どこで?
「新しい案件の
判断理由としてです」
桐山は、
小さく目を閉じる。
始まってしまった。
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文書は、
説明のために作られた。
だが今、
判断の根拠として
使われている。
存在しなかった判断が、
増殖している。
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「これで、
やりやすくなりました」
別部署の職員が、
そう言ったという。
悪気はない。
むしろ、
感謝に近い。
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桐山は、
はっきりと理解する。
自分は、
正義を整えたのではない。
正義を、
供給してしまった。
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供給された正義は、
消費される。
都合よく、
迅速に、
疑われることなく。
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夜、
桐山は
あの一行を思い出す。
「本件において、
判断は存在しなかった。」
あれを、
消したのは自分だ。
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後悔ではない。
だが、
無関係でもない。
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桐山は、
初めてはっきり思う。
正義は、
作られる瞬間よりも、
作られたあとに
何をするか
のほうが、
ずっと重要だ。
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作られた正義は、
もう止まらない。
ならば、
どこへ向かわせるか。
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桐山は、
新しいフォルダを開く。
今度は、
報告書ではない。
正式文書でもない。
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ファイル名は、
短く、
無機質だ。
「補遺」
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そこに、
書き始める。
判断の裏側。
迷い。
削った行。
そして、
なぜ削ったのか。
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これは、
公式には使われない。
だが、
残る。
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桐山は、
自分でも分からないまま、
それを書いている。
誰に向けてか。
いつ使われるか。
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ただ、
一つだけは確かだ。
正義は、
もう一度動いた。
今度は、
自分の手を離れて。




