第七章 誰の正義か
最初に違和感として現れたのは、
一本の電話だった。
名乗りはしない。
声も、特別荒れてはいない。
ただ、
静かだった。
「以前の件について、
確認したいことがあります」
それだけ。
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桐山は、
すぐに思い当たった。
処理された案件の一つ。
判断者不在のまま、
棚に置かれた事例。
記録上は、
すでに終わっている。
だが、
終わったはずの案件は、
時々こうして戻ってくる。
終わっていない形で。
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電話の向こうの人物は、
関係者ではなかった。
記者でもない。
弁護士でもない。
「関心を持っただけです」
そう言った。
関心。
それは、
制度が最も扱いづらい動機だ。
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「公式な説明は、
公開されていますよね」
相手は、
丁寧な口調で続ける。
「でも、
それ以上のことは
分からない」
「判断は適切だったと
書かれていますが、
誰が、
どう判断したのかが」
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桐山は、
すぐに答えなかった。
制度的には、
答える必要はない。
公開情報以上の説明は、
求められていない。
だが、
相手は引かなかった。
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「正義って、
誰のものなんでしょうか」
唐突に、
そう聞かれた。
挑発ではない。
問いだった。
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電話を切った後、
桐山は
しばらく席を立てなかった。
誰の正義か。
その問いは、
ずっと避けてきたものだ。
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午後、
同様の問い合わせが
もう一件入る。
今度は、
市民相談窓口経由だ。
形式は違うが、
中身は同じ。
「なぜ、
そう判断されたのか
知りたい」
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桐山は、
相談担当の職員と話す。
「説明は、
必要最小限でいいですよね」
確認の口調。
余計なことは言わない。
それが、
正しい対応だ。
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だが、
桐山は首を横に振った。
「説明できない理由を、
説明しないといけない」
職員は、
意味を測りかねている。
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「判断が無いから、
説明できない」
「それ自体が、
説明だ」
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その日以降、
問い合わせは少しずつ増えた。
数としては多くない。
だが、
質が違う。
怒りではなく、
納得できなさ。
抗議ではなく、
理解の要求。
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記者が、
一度だけ訪ねてきた。
名刺を差し出し、
単刀直入に言う。
「制度の欠陥では?」
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桐山は、
即答しなかった。
欠陥、と言われれば、
否定はできない。
だが、
設計ミスでもない。
制度は、
その通りに動いている。
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「欠陥というより、
結果です」
桐山は、
そう答えた。
「合理性を
積み重ねた結果」
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記者は、
興味深そうに
メモを取る。
「じゃあ、
正義は
どこにあるんですか」
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桐山は、
窓の外を見る。
街は、
何事もなかったように
動いている。
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「正義は、
制度の中にはあります」
「でも、
誰のものかと聞かれると、
答えられない」
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記者は、
その答えを
そのまま記事にはしなかった。
だが、
空気は変わる。
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内部でも、
ざわめきが広がる。
「余計なことを
言わないでほしい」
そんな声も出る。
正義を守るために、
語らない。
皮肉だが、
よくある理屈だ。
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桐山は、
その板挟みの中に立つ。
内に向けば、
正義は薄まる。
外に向けば、
正義は歪む。
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夜、
一人で資料を読み返す。
処理済みの案件。
判断者不在。
それを、
社会はどう受け取るのか。
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答えは、
もう出ている。
誰の正義でもないものは、
誰からも信用されない。
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桐山は、
深く息を吸う。
自分が問われているのは、
正しさではない。
引き受ける意思だ。
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そして理解する。
正義は、
制度の中で完結しない。
必ず、
外と接触する。
そのとき、
誰が名乗るのか。
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桐山は、
まだ名乗らない。
だが、
名乗らずに済む時間は、
確実に減っている。




