第六章 前例の影
それは、
誰も口にしなかった。
だが、
誰もが知っていた。
桐山が関わった、
あの事件。
公式には、
問題のない処理。
適切な判断。
模範的な前例。
資料の中では、
そう記されている。
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だが、
最近扱われている案件のいくつかに、
微妙な共通点があった。
判断理由の書き方。
留保の置き方。
「参考に留める」という言い回し。
桐山自身の癖だ。
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若手職員が、
ある案件の説明をしているとき、
ふと口にした。
「以前のケースに近いと思いまして」
以前。
具体名は出さない。
出す必要もない。
皆、
同じものを思い浮かべている。
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桐山は、
その瞬間、
はっきりと理解した。
前例は、
判断そのものではない。
判断の“仕方”が、
前例になる。
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あのとき、
自分は迷った。
資料を読み、
意見を聞き、
それでも決定打がなかった。
だから、
動かさなかった。
それが、
安全だと思った。
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だが今、
その「動かさなかった姿勢」が、
他の判断者の手を止めている。
判断しないことが、
合理的な選択肢として
共有されている。
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「桐山さんのときも、
そうでしたよね」
中堅職員が、
悪気なく言った。
「結論を急がず、
静観する判断」
褒め言葉だ。
だからこそ、
重い。
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桐山は、
反論しなかった。
できなかった。
なぜなら、
それは事実だからだ。
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前例は、
便利だ。
責任を分散し、
判断を正当化する。
だが同時に、
思考を止める。
「前もそうだったから」
その一言で、
迷いが片付いてしまう。
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桐山は、
自分が残した記録を
思い出す。
判断を下さなかった理由を、
十分に言語化しなかった。
だから、
理由だけが削ぎ落とされ、
結果だけが残った。
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結果だけが残る前例は、
最も危険だ。
なぜなら、
応用されてしまう。
状況も、
文脈も、
迷いも違うのに。
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夕方、
新たな案件が回ってくる。
内容は、
前よりもさらに曖昧だ。
判断材料は少なく、
影響も小さい。
まさに、
前例に頼りたくなる案件。
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若手職員が、
様子をうかがう。
「……処理で、
いいですか」
その問いの裏には、
前例がある。
桐山が作った影。
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桐山は、
すぐには答えない。
だが、
これまでと同じ沈黙は、
もう選べなかった。
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「前と同じに
しない理由がある」
そう言った瞬間、
部屋の空気が
わずかに変わる。
理由。
それを求められる。
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桐山は、
言葉を選ぶ。
「前例は、
結論じゃない」
「考え方の痕跡だ」
「だから、
同じ形で使うと、
間違うことがある」
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職員たちは、
黙って聞いている。
反発はない。
ただ、
戸惑いがある。
前例は、
答えだと思っていたからだ。
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桐山は、
ここで初めて、
はっきりと意識する。
自分は、
正義を残しただけではない。
正義の“使い方”を
残してしまった。
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その責任から、
もう逃げられない。
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夜、
一人になった桐山は、
ノートを開く。
そこに、
新しい一文を書く。
「前例は、
判断を助けるためにある。
判断を省くためではない。」
これは、
制度には残らない。
だが、
誰かが読むかもしれない。
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正義は、
影を落とす。
強い正義ほど、
長い影を持つ。
桐山は、
その影の中に立っている。




