第四章 残された記録
そのファイルは、
公式の一覧には載っていなかった。
だが、
消去もされていない。
桐山の端末の奥、
制度の隙間に近い場所に、
それは残っている。
彼自身が、
かつて作ったものだった。
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名前はない。
正確には、
名前を付けなかった。
事件名でも、
分類コードでもなく、
ただ日付と、
内部用の整理番号だけ。
公表するつもりはなかった。
判断に使う予定もなかった。
それでも、
消すという選択だけは
しなかった。
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内容は、
「意味を持たなかった情報」の集積だ。
証拠としては弱い証言。
判断を左右しなかった違和感。
提出されたが、
採用されなかった意見書。
どれも、
間違ってはいない。
ただ、
足りなかった。
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桐山は、
そのファイルを
もう一度開く。
久しぶりに見るはずなのに、
ページの配置や、
文の癖を、
身体が覚えている。
自分が書いたものだ。
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当時の判断は、
正しかった。
そう評価されている。
今も、
覆されていない。
だからこのファイルは、
表に出ることはない。
出せば、
判断を疑うことになる。
制度は、
そこまでの揺らぎを
許容しない。
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だが、
桐山は知っている。
この記録が、
完全な無意味ではないことを。
判断には使われなかったが、
判断の外側に、
確かに残った。
そして、
それを見た者がいる。
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最近の案件のログに、
このファイルへの
参照履歴があった。
桐山自身ではない。
誰かが、
たどり着いている。
意図的か、
偶然かは分からない。
だが、
拾われた。
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若手職員の顔が、
脳裏に浮かぶ。
判断を求めながら、
判断の置き場を
見失っていた目。
彼が、
この記録を見たのかもしれない。
あるいは、
別の誰か。
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桐山は、
初めてはっきりと理解する。
正義を動かさなかったことは、
終わりではなかった。
残したこと自体が、
次の始まりになっている。
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過去、
桐山は考えた。
動かない判断は、
安全だと。
誰も傷つかない。
少なくとも、
表面上は。
だが、
残されたものは、
静かに蓄積する。
判断されなかった理由。
語られなかった迷い。
それらは、
次の誰かの前に
形を変えて現れる。
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桐山は、
自分が作ったファイルを
閉じない。
削除もしない。
ただ、
新しいメモを
一行だけ加える。
「この記録は、
判断に使われなかった。
だが、
判断が存在した事実は、
ここにある。」
評価でも、
提言でもない。
ただの事実。
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その瞬間、
桐山は理解する。
自分は、
正義を止めたのではない。
正義を、
宙に浮かせた。
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それは、
良い行為でも、
悪い行為でもない。
だが、
責任がないわけではない。
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窓の外では、
夕方の光が
街を照らしている。
人々は、
何も知らない。
知らないままでいい。
だが、
その裏で、
判断されなかった正義が、
静かに積み重なっている。
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桐山は、
椅子に深く座り直す。
もう一度、
最初から考え直す必要がある。
正義を動かすか、
動かさないか、ではない。
正義を、
どう残すか。




