第三章 処理という名の沈黙
その案件は、
「処理済み」と表示されていた。
桐山が端末を開いたとき、
画面の右上に小さく、その文字が出ている。
判断済み、ではない。
終結、でもない。
処理済み。
いつから使われ始めたのか、
桐山は正確には覚えていない。
気づけば、
そこにあった言葉だ。
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処理とは何か。
分類し、
整理し、
次の段階へ回すこと。
それ自体は、
業務として正しい。
だがこの案件は、
どこにも回されていなかった。
棚に置かれ、
ラベルが貼られ、
触られなくなった。
それを「処理」と呼んでいる。
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桐山は、
処理の経路を辿る。
担当部署から、
一段上の管理層へ。
そこで止まっている。
差し戻しはない。
承認もない。
ただ、
「処理済み」の印だけが
残っている。
⸻
午後、
別部署の中堅職員が
桐山を訪ねてきた。
用件は、
似た案件の扱いについてだった。
「この場合、
処理でいいですよね」
確認というより、
同意を求める口調。
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桐山は、
即答しなかった。
「処理って、
何を指してる?」
職員は、
少しだけ言葉に詰まる。
「……判断を
これ以上進めない、
という意味です」
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進めない。
否定ではない。
拒否でもない。
ただ、
進めない。
桐山は、
その言葉の軽さに、
わずかな寒気を覚えた。
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「処理にすると、
誰が責任を持つ?」
職員は、
困ったように笑った。
「誰も、ですかね」
冗談のように言ったが、
それが現実だった。
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桐山は、
かつての自分を思い返す。
正義が動かなかったとき、
自分は「動かさない」と
判断した。
だが今は、
誰も判断していない。
それでも、
結果は同じように見える。
案件は終わり、
社会は何も変わらない。
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だが、
決定的な違いがある。
判断しなかった場合、
なぜ終わったのかが
誰にも説明できない。
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夕方、
庁舎の廊下を歩きながら、
桐山は掲示板を見る。
業務効率化。
負担軽減。
迅速な処理。
どれも、
間違っていない。
だがその言葉の裏で、
何が削られているのか、
誰も書いていない。
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若手職員が、
ぽつりと漏らした言葉を
思い出す。
「判断って、
重いですよね」
否定できなかった。
判断は、
名前を残す。
履歴を残す。
未来に引用される。
だから皆、
処理を選ぶ。
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夜、
桐山は自席で、
一つの案件を開いたまま、
画面を見つめていた。
判断すれば、
前例になる。
処理すれば、
何も残らない。
いや、
正確には違う。
何も残らないように見えるだけで、
何かが確実に残る。
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それは、
説明されなかった理由。
語られなかった迷い。
次に同じ状況に立った者が、
「前も処理された」と
思い出すための、
曖昧な記憶。
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正義は、
声を上げないまま、
静かに棚に置かれる。
誰も否定しない。
誰も擁護しない。
その沈黙を、
処理と呼ぶ。
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桐山は、
その案件を閉じなかった。
処理もしない。
判断もしない。
ただ、
開いたままにする。
それは、
制度の中では
最も落ち着かない状態だった。
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正義は、
ここにある。
だが、
触れられていない。
そして、
触れられないままでも、
世界は回ってしまう。
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桐山は、
静かに理解する。
これは、
誰かの悪意ではない。
正義が、
効率の中で
薄まっていく過程だ。
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その夜、
庁舎の灯りが落ちる頃、
処理済みの案件は、
また一つ増えた。
判断されたわけでも、
否定されたわけでもない。
ただ、
沈黙の中に置かれた。




