第二章 判断しない者たち
翌朝、
桐山は少し早めに出庁した。
昨夜の案件が、
頭から離れなかったわけではない。
離れないようなことは、
もう珍しくない。
それでも、
無意識に足が向かう場所が、
いつもと違っていた。
判断を下す部署ではなく、
判断が集まる部署。
そこには、
決裁の痕跡が集積されている。
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端末を立ち上げ、
類似案件を検索する。
条件は単純だ。
・判断済み
・決裁者名なし
・差し戻し記録なし
該当件数は、
ゼロのはずだった。
制度上、
あり得ない。
だが、
画面には数字が表示された。
三件。
少なすぎるとも、
多すぎるとも言えない。
だが、
確実に「ある」。
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内容を確認する。
どれも小さな事件だ。
軽微な暴行。
職務質問中のトラブル。
誤認逮捕の疑い。
共通点は、
どれも「判断すれば終わる」案件だということ。
そして、
判断しなくても
時間が解決してしまう案件。
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桐山は、
一件ずつ、
ログを辿っていく。
閲覧者は多い。
だが、
誰も最後の一行を書いていない。
まるで、
全員が「ここまででいい」と
無言で合意しているようだった。
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昼前、
若手職員が
資料を持ってきた。
昨日の案件について、
調査した結果だ。
「直接の決裁は、
見つかりませんでした」
桐山は、
予想していた通り、
うなずいた。
「ただ……」
職員は言い淀む。
「関わった人は、
かなりいます」
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関わった。
判断した、ではない。
関わった。
桐山は、
その言葉の選び方に、
小さく息を吐いた。
それが、
今の制度の正確な表現だった。
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「誰か一人が
責任を負ったわけじゃないんです」
職員は続ける。
「でも、
全員が
何かしら見て、
読んで、
意見は持っていたと思います」
つまり、
誰も判断していないが、
誰も無関係ではない。
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桐山は、
過去の自分を思い出す。
前例を作った、
あの判断。
あのときも、
一人で決めたわけではなかった。
意見は集まっていた。
反対も、懸念もあった。
だが、
最終的に拾わなかった。
拾わなかった理由は、
制度的には正しい。
だから、
誰も止めなかった。
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「今は、
拾う前に
手が引っ込む」
桐山は、
ぽつりと言った。
職員は、
意味を測りかねている。
「判断すると、
名前が残る」
「判断しなければ、
仕事は終わる」
「その違いが、
少しずつ
大きくなっている」
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職員は、
視線を落とした。
反論はない。
彼自身も、
その構造の中にいる。
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午後、
別の部署から連絡が入る。
「似た案件があります」
声のトーンは、
相談というより、
確認に近い。
判断していいか、ではない。
判断しなくてもいいか
を確かめている。
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桐山は、
その感覚に
はっきりとした危機感を覚えた。
正義が動かない段階は、
もう終わっている。
今は、
正義が「始まらない」。
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会議室で、
数人が集まる。
議題は、
あの三件だ。
結論を出す会議ではない。
「どう扱うかを共有する」
ための会議。
その時点で、
何かがずれている。
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意見は出る。
・影響は軽微
・前例に沿っている
・リスクは低い
すべて正しい。
だが、
誰も「決めよう」と言わない。
沈黙が、
自然に流れる。
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桐山は、
その沈黙を破らなかった。
破れば、
自分が決めることになる。
それは、
できる。
だが、
今ここでやるべきかは、
別の問題だ。
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会議が終わる。
何も決まらないまま。
それでも、
皆は席を立つ。
仕事は、
進んだことになっている。
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桐山は、
一人残る。
判断しない者たちは、
悪意を持っていない。
怠慢でもない。
ただ、
合理的なのだ。
そして、
その合理性が積み重なった先に、
残るものがある。
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正義は、
語られない。
選ばれない。
動かない。
そして今、
引き受けられない。
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桐山は、
ノートを閉じる。
これは、
事件ではない。
構造だ。
そして構造は、
一度できあがると、
事件よりも厄介だ。
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次に来るのは、
もっと小さく、
もっと曖昧な案件だろう。
だが、
それこそが危険だ。
誰にも拾われず、
誰にも拒まれず、
ただ残っていく。
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正義は、
まだそこにある。
だが、
誰の手にも
渡っていない。




