最終章 残された正義
朝は、
何事もなかったように始まった。
庁舎の入口で、
警備員が軽く会釈する。
自動ドアが開き、
人の流れが中へ吸い込まれていく。
昨日と同じだ。
昨日までと、何も変わらない。
変わったのは、
中身だけだった。
⸻
桐山の机には、
新しい案件が置かれている。
封筒は薄い。
資料も少ない。
だが、
その軽さが、かえって重い。
判断材料が少ない案件ほど、
判断は求められる。
処理では済まない。
⸻
表紙をめくった瞬間、
桐山は理解する。
これは、
これまでのすべてが
折り重なって生まれた案件だ。
処理された過去。
作られた判断。
拾われ、流通した正義。
疑義として残された補遺。
そのすべてを前提に、
次の判断が迫られている。
⸻
担当職員は、
何も言わない。
説明も、
意見も出さない。
ただ、
机の前に立っている。
以前なら、
「どうしますか」と聞いただろう。
だが、
今は聞かない。
聞かなくても、
この案件が
“判断を要求している”ことは
誰の目にも明らかだからだ。
⸻
桐山は、
資料をゆっくり読み進める。
当事者の主張。
第三者の証言。
矛盾点。
未整理の感情。
どれも、
見覚えがある。
だが、
同じではない。
⸻
ここには、
「前例」がある。
かつて桐山が関わった判断。
作られ、引用され、
社会に定着しかけた正義。
それが、
無言の圧力として
行間に染み込んでいる。
⸻
この場合、
前と同じ判断が
最も“安全”だ。
誰も驚かない。
誰も騒がない。
説明も簡単だ。
「これまでの判断を踏まえ――」
それだけでいい。
⸻
だが、
桐山の手は止まる。
それをやれば、
正義は“完成”する。
疑われる余地のない形で。
動かなくなる形で。
⸻
ふと、
桐山は思い出す。
最初に正義を
動かさなかった、
あの日の自分。
判断を避けたのは、
勇気がなかったからではない。
むしろ、
自分の判断が
他者の人生を
固定してしまうことを
恐れたからだ。
⸻
だが、
皮肉なことに。
判断しなかったことで、
正義は別の形で固定された。
名前のない沈黙として。
処理という名の空白として。
⸻
桐山は、
ゆっくりとペンを置く。
この案件に、
完璧な結論はない。
それは、
最初から分かっている。
⸻
では、
何ができるのか。
⸻
桐山は、
一つの文書を開く。
公式文書ではない。
補遺でもない。
新しい形式だ。
⸻
そこに、
こう書き始める。
「本件は、
明確な結論を
持たない可能性がある」
「その理由を、
以下に記す」
⸻
それは、
制度としては
不完全な文書だ。
だが、
嘘ではない。
⸻
桐山は、
判断に至らなかった理由を
すべて書く。
矛盾。
不足。
迷い。
判断すれば失われるもの。
そして、
判断しなかった場合に
残るもの。
⸻
結論は、
一行だけだ。
「本件は、
現時点では
結論を確定しない」
⸻
それは、
逃げにも見える。
だが、
桐山は逃げていない。
⸻
文書の最後に、
こう付け加える。
「ただし、
この判断は、
将来の再検討を
妨げるものではない」
「本件に関する記録は、
すべて保存され、
次の判断者に
引き継がれる」
⸻
担当職員が、
小さく息をのむ。
前例にしない。
だが、
消しもしない。
最も、
扱いづらい選択だ。
⸻
「これ……
大丈夫なんですか」
そう聞かれる。
桐山は、
はっきりとは答えない。
「大丈夫かどうかは、
分からない」
「でも、
正確だ」
⸻
その日、
その判断は
正式に登録される。
評価は割れる。
曖昧だという声。
無責任だという声。
だが、
一部からは
違う反応も出る。
「考える余地がある」
「判断を急がなかった理由が、
初めて見えた」
⸻
正義は、
完成しなかった。
だが、
凍結もしなかった。
⸻
数日後、
桐山のもとに
短いメールが届く。
差出人は、
分からない。
本文は、
一行だけだ。
「読めました」
⸻
それだけ。
感謝も、
批判もない。
⸻
桐山は、
画面を閉じる。
正義が、
誰かに届いたかどうかは
分からない。
だが、
誰かが読んだ。
それだけで、
十分だと思えた。
⸻
庁舎を出ると、
夕方の街が広がっている。
人々は、
それぞれの事情を抱え、
それぞれの正しさで
生きている。
⸻
桐山は、
その中に溶け込む。
特別な存在ではない。
ただ、
一度、
正義の近くに立った人間として。
⸻
正義は、
救いでもなければ、
罰でもない。
それは、
選び続けなければならない
問いだ。
⸻
残った正義は、
次の誰かに渡される。
形を変え、
疑われ、
語り直されながら。
⸻
そして、
それを引き受けるのは、
いつも個人だ。
名前のある誰か。
あるいは、
これを読んでいる――
あなたかもしれない。
⸻
正義は残り、
さらに続く。
それが、
終わらなかった理由だ。




