第一章 記録に残らない案件
違和感は、音もなく始まった。
桐山がそれに気づいたのは、
定例の回付資料に目を通している、
ごくありふれた午後だった。
事件一覧は、
いつもと同じ形式で並んでいる。
事件番号、概要、判断状況、担当部署。
整然としている。
整然としすぎている、と言ってもいい。
だからこそ、
桐山の視線は一箇所で止まった。
番号が、
一つだけ飛んでいる。
⸻
珍しいことではない。
資料作成の過程で、
案件が統合されたり、
形式が変わったりすることはある。
番号が欠ける理由はいくらでもある。
だが桐山は、
その欠け方に、
説明しづらい引っかかりを覚えた。
まるで、
最初から「そこに何かがあった」ことを、
資料自体が否定しているような。
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該当番号を内部システムで検索する。
事件は、存在した。
被害者一名。
軽傷。
社会的影響は限定的。
報道なし。
判断は、
すでに下されている。
「適切な措置」
「違法性なし」
「追加対応不要」
どれも、
これまで何度も見てきた言葉だ。
内容だけを見れば、
気に留める必要のない案件だった。
⸻
だが、
担当者名の欄が、空白だった。
代行の印も、
仮決裁の記録もない。
完全な空白。
桐山は、
無意識のうちに
その画面を見つめ続けていた。
判断は存在する。
だが、
誰が判断したのかが分からない。
それは、
制度の中では
あり得ない状態だった。
⸻
桐山は、
ログを確認する。
閲覧履歴はある。
複数人が、
この案件にアクセスしている。
だが、
決裁が行われた瞬間だけが、
記録から抜け落ちている。
消された形跡はない。
最初から、
残されていない。
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桐山の胸に、
ゆっくりとした緊張が広がる。
この感覚を、
彼は知っている。
前作で、
正義が動かなかったとき。
結論は出た。
制度は機能した。
だが、
何かが確実に残った。
あの感触と、
よく似ている。
⸻
若い職員が、
控えめに声をかけてきた。
「この案件、
どう扱えばいいでしょうか」
困惑というより、
戸惑いに近い表情だった。
判断が下されているのに、
それを誰が引き受ければいいのか、
分からない。
桐山は、
すぐには答えなかった。
⸻
「これ、
誰が決めたか分かる?」
職員は、
首を横に振る。
「記録上は、
決まっているんですが……」
言葉が、
途中で途切れる。
「決めた人」がいないことを、
どう説明すればいいのか、
彼自身も分かっていない。
⸻
桐山は、
画面から目を離さずに言った。
「まず、
判断の結果じゃなくて、
判断の過程を洗おう」
職員は、
一瞬きょとんとした。
結果を見る。
それが通常だ。
過程は、
必要なときにだけ参照するもの。
だが今は、
逆だった。
⸻
桐山の脳裏に、
過去の一件が浮かぶ。
ずっと前、
似た構図の事件。
迷いはあった。
だが、
材料が足りなかった。
拾わなかった。
拾えなかった。
その判断は、
正しかったとされている。
今も。
そしてその正しさが、
制度のどこかに沈殿し、
こうした案件を
生み出している。
⸻
正義は、
動かなかった。
だがそれは、
止まったのではなく、
形を変えたのだ。
今度は、
判断そのものが
姿を消している。
⸻
桐山は、
静かに息を吐いた。
この案件は、
小さい。
だが、
小さいからこそ、
誰にも拾われずに
残ってしまった。
正義が、
置き去りにされたまま。
⸻
「これは、
急がなくていい」
桐山は言った。
「ただし、
消すな。
閉じるな。
判断したことにもしない」
職員は、
少し戸惑いながらも
うなずいた。
⸻
桐山は、
自分が何を始めてしまったのか、
まだ正確には分かっていなかった。
ただ一つ、
確かなことがある。
これは、
前作で残したものが、
誰かに拾われた結果だ。
正義は、
残った。
そして、
残ったままではいられなくなった。




