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「パパはやってない」――たった一人の真実(むすめ)を胸に、俺を裏切った世界に復讐する  作者: ledled


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ガラスの城に囚われたクイーンの懺(綾辻美沙緒 視点)

私の人生は、完璧なはずだった。

誰もが羨む大手総合商社勤務のエリート夫、東雲征一郎。都心にそびえ立つタワーマンションの四十二階からの眺め。聡明で自慢の娘、莉緒。そして、インスタグラムに投稿すれば、何百もの「いいね」がつく、きらびやかな毎日。私は、ガラスの城に住む、幸福なクイーン。そう、信じて疑わなかった。


あの日、夫が「痴漢」だというニュースを目にするまでは。

スマホの画面に映し出された『大手商社課長、痴漢の疑い』という文字を見た瞬間、私の頭は真っ白になった。征一郎さんが?あの、いつも冷静で、感情を表に出すのが苦手で、少し退屈なくらい真面目な夫が?

信じられない。でも、ネットには彼の顔写真が晒され、匿名の中傷が嵐のように吹き荒れている。会社の同僚の妻たち、いわゆる「奥様会」のグループLINEは、私を気遣うふりをした好奇のメッセージで鳴りやまなかった。


『美沙緒さん、大丈夫?』

『旦那様、何かストレスでもあったのかしら』


その一行一行が、私のプライドを鋭い針で突き刺すようだった。恥ずかしい。みっともない。惨めだ。

私が守ってきた完璧な世界に、泥が投げつけられた。私の「東雲美沙緒」というブランドに、取り返しのつかない傷がついた。

怒りの矛先は、自然と夫に向かった。なぜ。なぜ、私の人生をめちゃくちゃにしてくれたの。


「信じてくれ」


警察から帰ってきた夫は、憔悴しきった顔でそう言った。でも、その言葉は私の耳には届かなかった。私が求めていたのは、真実ではない。世間に対する「言い訳」だった。彼が本当にやったかどうかなんて、どうでもよかった。問題は、彼が「痴漢の容疑者」になったという、その事実だけだった。


「あなたを信じられない」


私は、そう言って彼を突き放した。

今思えば、あのとき、私はすでに遊佐響という男の魔法にかかっていたのかもしれない。

響さんは、夫の部下だった。甘いマスクと、人当たりの良い性格。彼は、夫にはないものをすべて持っていた。私の些細な変化に気づき、「今日の服、素敵ですね」と褒めてくれる。私の退屈な日常の話を、楽しそうに聞いてくれる。そして、何よりも、彼は私を「一人の女性」として見てくれた。


「美沙緒さんほどの女性が、東雲課長の妻でいるだけなんて勿勿体ない。あの人は、あなたの本当の輝きに気づいていない」


響さんは、そう囁いた。その言葉は、乾いた私の心に染み渡る甘い蜜のようだった。夫は、私に最高の生活を与えてくれた。でも、いつからか、彼は私を見てくれなくなった。彼が見ているのは、常に仕事と、そして娘の莉緒だけ。私は、このガラスの城を彩る、美しい調度品の一つに過ぎないのではないか。そんな孤独感が、ずっと胸の奥に渦巻いていた。

響さんは、その隙間に巧みに入り込んできた。夫が痴漢容疑で世間から叩かれている間も、彼は「俺だけは、あなたの味方です」と言って、優しく抱きしめてくれた。彼の腕の中で、私はようやく安らぎを得られる気がした。

だから、夫に離婚届を突きつけたとき、私に迷いはなかった。犯罪者の妻という汚名から逃れ、私を本当に愛してくれる響さんと新しい人生を始める。それが、私にとって最良の選択だと信じていた。


「お母さんこそ、何してるの。パパが一番辛いときに」


娘の莉緒が、私を軽蔑の目で見つめたときも、私はその意味が分からなかった。この子はまだ子供だから、世間の恐ろしさが、女の幸せが何なのかが、分かっていないのだと思った。親権は私が取るつもりだったが、莉緒は頑なに父親と一緒に行くと言い張った。それすらも、私の決意を後押しした。ちょうどよかった。夫と娘という「過去」を捨て、私は新しい人生へと飛び立つことができるのだから。


しかし、私の新しい人生は、想像とはまったく違うものだった。

響さんは、夫に代わってプロジェクトリーダーになり、前にも増して忙しくなった。以前のような甘い言葉は減り、彼の態度は日に日に苛立ちを募らせていく。


「ねえ、響さん。今度の週末、箱根にでも行かない?」

「そんな暇あるわけないだろ!俺がどれだけ大変か分かってるのか!」


彼の怒声に、私は怯えた。夫が私に声を荒らげたことなど、一度もなかったのに。

そして、悪夢は突然やってきた。響さんが会社をクビになり、警察に追われる身になった。理由は、会社への背任行為と、そして……夫を陥れた痴漢冤罪の画策。

頭を殴られたような衝撃だった。じゃあ、夫は、本当に無実だった?響さんは、私を利用して、夫を陥れただけだったの?

私は、混乱したまま彼の元へ駆けつけた。


「どういうことなの、響さん!説明して!」


彼は、まるで別人のように冷たい目で私を見下ろした。


「うるさい!お前が疫病神だからだ!お前みたいな中古品はもういらないんだよ!消えろ!」


突き飛ばされ、床に倒れ込む。中古品。その言葉が、私の頭の中で何度も反響した。私は、彼にとって、夫から奪い取るためのトロフィーでしかなかった。そして、用が済めば、あっさりと捨てられるガラクタだったのだ。

何もかも失った。私をクイーンにしてくれていた夫も、財産も、社会的地位も。そして、新しいキングだと思っていた男も。残ったのは、世間からの非難と、娘からの軽蔑だけ。


私は、最後の望みをかけて、夫と娘が住む古いアパートへ向かった。みじめでも、格好悪くても、謝って、もう一度やり直したい。あの完璧だったガラスの城に、もう一度戻りたい。


「私が間違っていたわ。もう一度、チャンスをください」


雨に打たれながら、私は地面に膝をついて泣きじゃくった。だが、元夫の目は、凍てつく冬の湖のように、何の感情も映してはいなかった。彼が私にかけた言葉は、優しさではなく、冷徹な真実の宣告だった。


「もう君の居場所は、俺たちの隣にはない」


そして、娘の莉緒が私に放った言葉が、私の心を完全に破壊した。


「あなたみたいな人が、お母さんだったなんて、今はもう恥ずかしい」


ああ、そうか。私は、クイーンなんかじゃなかったんだ。

私はただ、夫が築き上げたガラスの城の中で、外の世界の本当の輝きも、寒さも知らずに、ただ与えられるだけの餌で満足していた、愚かな鳥かごの鳥だったのだ。

城壁が崩れ、外の世界に放り出された今、私はどうやって飛べばいいのかも分からない。

鳴りやまない後悔と自己嫌悪の中、私は雨の中でただ立ち尽くすことしかできなかった。

空っぽになった心に、冷たい雨が容赦なく染み込んでいく。私が捨てたものが、どれほど温かく、かけがえのないものだったのか。失って初めて気づくなんて、私はなんて愚かだったのだろう。

もう遅い。その言葉だけが、私の世界で唯一の真実だった。

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