第四話 君と迎える新しい朝
世界がひっくり返るのに、それほど時間はかからなかった。
テレビのニュース番組は、連日のように「エリート商社マン痴漢冤罪事件の真相」と題した特集を組んだ。俺の無実が証明され、その裏で糸を引いていた遊佐響の悪質な計画が白日の下に晒される。世間の手のひら返しは、凄まじいものだった。昨日まで俺を叩いていたネットの匿名アカウントは沈黙し、代わって遊佐と、そして彼に加担した元妻・美沙緒への非難が嵐のように吹き荒れた。
遊佐響の末路は、俺が想像していた以上に悲惨なものだった。
会社からの巨額の損害賠償請求に加え、偽証罪、名誉毀損、業務上横領、背任と、いくつもの罪状で起訴され、実刑判決が下った。彼の甘いマスクが載った写真は、今度は「凶悪な計画犯罪者」として世間に消費されていく。社会的にも経済的にも、彼は二度と浮き上がれない深淵へと沈んでいった。因果応報。その言葉が、これほどしっくりくる結末もなかった。
そして、美沙緒。
彼女は、絶望という名の迷宮を、たった一人で彷徨うことになった。
遊佐に貢いだことで、俺から奪った慰謝料はほとんど残っていなかった。虚飾の生活を支えていたSNSアカウントは炎上し、閉鎖せざるを得なくなる。あれほど大事にしていた「ママ友」たちは、蜘蛛の子を散らすように彼女から離れていった。
プライドを捨て、パートの面接を受けるも、「あの東雲さんの元奥さんですよね?」と囁かれ、どこへ行っても好奇の目に晒される。世間知らずで、実務経験のない彼女を雇ってくれる場所は、どこにもなかった。
ある雨の日、彼女は再び、俺たちのアパートの前に現れた。高級ブランドのバッグの代わりに、使い古したビニール傘を握りしめている。その姿は、俺の記憶にある華やかな美沙緒とは似ても似つかない、ただの疲れ切った中年女性だった。
「征一郎さん……お願い。私が、私が間違っていたわ。あなたの価値も、莉緒の気持ちも、何も分かっていなかった」
彼女は、雨で濡れた地面に膝をつき、俺にすがりついた。
「もう一度……もう一度だけ、チャンスをください。家族として、やり直させて……。あなたと莉緒がいないと、私、もうどうやって生きていけばいいか分からないの……」
涙と雨でぐしゃぐしゃになった顔。それは、かつて俺が絶望の底にいたとき、彼女が決して見せることのなかった姿だった。
俺は、静かに傘を傾けて、彼女に雨が当たらないようにしてやった。その仕草に、彼女の瞳がわずかに期待の色を帯びる。だが、俺が口にした言葉は、氷のように冷たかった。
「美沙緒。君は、俺が一番助けを必要としていたときに、俺の手を振り払い、背中を押して崖から突き落とした。覚えているか?」
「……っ」
「君が心配していたのは、俺のことじゃない。君自身の世間体とプライドだけだ。俺と娘の心を、君は自分の虚栄心のために踏みにじった。その事実が、消えることはない」
俺は一歩下がり、彼女との距離を取った。
「もう君の居場所は、俺たちの隣にはない。君は、君が犯した過ちの重さと、これから一人で向き合っていくんだ。それが、君が支払うべき代償だ」
そのとき、アパートのドアが開き、莉緒が出てきた。彼女は、泣き崩れる母親を一瞥すると、何の感情も浮かべない目で、静かに、しかしはっきりと告げた。
「あなたみたいな人が、お母さんだったなんて、今はもう恥ずかしい。二度と、パパと私の前に現れないで」
その言葉は、何よりも鋭い刃となって、美沙緒の心を貫いた。彼女は、わっと声を上げて泣き崩れた。俺と莉緒は、その姿に背を向け、静かに部屋の中へと戻った。ドアを閉めると、慟哭は壁一枚を隔てて遠のいていった。
もう、あの声が俺たちの世界に届くことはないだろう。
復讐は、終わった。
だが、俺たちの人生は、そこから新しく始まった。
冤罪事件が解決した後、俺のもとにはいくつかの会社からヘッドハンティングの話が舞い込んできた。その中で、俺がかつて所属していた会社の最大のライバルであった外資系の総合商社が、破格の待遇で俺を迎え入れてくれた。企画開発本部長という、以前よりも上の役職だった。
事件で得た賠償金と、新しい会社からの高額な報酬。経済的な基盤は、以前よりも遥かに強固なものになった。俺たちは、あの古いアパートを引き払い、海が見える新しい街の、日当たりの良いマンションに引っ越した。
「パパ、すごい。ここから船が見える」
莉緒は、広いリビングの窓辺に立ち、目を輝かせている。彼女の笑顔を見るのは、本当に久しぶりな気がした。
「ああ。いい眺めだろう」
「うん。……前のタワマンより、ずっと好き」
その言葉に、俺は胸が熱くなるのを感じた。俺たちは多くを失った。しかし、それ以上に大切なものを手に入れたのだ。
後日、業界のニュースサイトで、俺の古巣であった会社が、業績不振を理由に、俺が移籍した会社に吸収合併されるという記事を見つけた。俺を切り捨てた元上司たちは、今頃、リストラの恐怖に怯える日々を送っていることだろう。彼らが後悔しているかどうかなんて、もう俺にはどうでもいいことだった。彼らは、過去の亡霊に過ぎない。
春の穏やかな日差しが、新しい家のリビングに満ちている。
出勤の準備をする俺の背中に、莉緒の声が飛んだ。
「パパ、今日のネクタイ、似合ってるよ。その青、今のパパにぴったり」
振り返ると、莉緒が少し照れたように笑っていた。俺は、鏡に映る自分の顔を見た。そこには、かつてのエリート然とした硬い表情ではなく、どこか力の抜けた、穏やかな男が立っていた。
「そうか?ありがとう」
俺は、自分でも驚くほど不器用に、しかし、心の底からの笑顔を返した。
失ったものへの執着も、裏切られたことへの憎しみも、もうない。ただ、目の前にいる、たった一人の真実を、これから先、何があっても守り抜いていこう。その温かい決意だけが、胸の中を満たしていた。
玄関のドアを開けると、潮の香りを乗せた爽やかな風が吹き込んできた。
俺と莉緒は、顔を見合わせて微笑み合う。
過去の悪夢は、もう終わった。確かな絆で結ばれた俺たちの前には、希望に満ちた未来だけが広がっている。
見上げた空は、どこまでも青く、高く、澄み渡っていた。
俺たちは、新しい朝へと、確かな一歩を踏み出した。




