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「パパはやってない」――たった一人の真実(むすめ)を胸に、俺を裏切った世界に復讐する  作者: ledled


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第一話 偽りの家族、崩壊の序曲

窓の外には、朝日を浴びて輝く都心の摩天楼が広がっている。俺が住むタワーマンションの四十二階、そのリビングからの眺めは、成功の象徴そのものだった。

磨き上げられた大理石の床、イタリア製のデザイナーズソファ、そして壁一面の窓。東雲征一郎、四十二歳。大手総合商社・資源開発部門の課長。俺が築き上げてきた城であり、家族との完璧な生活を営むための舞台だ。


「あなた、おはよう」


キッチンから聞こえてきた声は、妻の美沙緒のものだ。振り返ると、シルクのガウンを羽織った彼女が、優雅な手つきでコーヒーを淹れている。その傍らで、スマホを片手に何かを撮影しているようだった。おそらく、インスタグラムに投稿する「#丁寧な暮らし」「#タワマンの朝」といったハッシュタグ付きの写真だろう。


「おはよう、美沙緒。いい香りだ」


俺がそう言うと、彼女は完璧な笑みをカメラではなく、俺に向けた。


「ええ。あなたのために、新しい豆を試してみたの。ほら、莉緒も早くしないと遅刻するわよ」


声のトーンがわずかに変わり、ダイニングテーブルの向こうに座る娘、莉緒に注意が向けられる。

莉緒は高校二年生。制服姿でトーストをかじりながら、手元のタブレットに視線を落としている。長い黒髪がさらりと流れ、その表情は母親とは対照的に、どこか冷めているように見えた。


「別にいい。今日は午後から選択授業だけだし」

「そういう問題じゃないでしょう。東雲家の娘として、時間にルーズなのはみっともないわ」

「……はいはい」


莉緒は気のない返事をすると、タブレットの画面を俺の方にちらりと向けた。そこには、俺が担当している南米の鉱山開発に関する海外ニュースが表示されていた。


「パパ、この記事読んだ?現地の環境団体が結構強く反発してるみたいだけど、大丈夫なの?」

「ああ、それは想定内だ。来週の役員会議で提出するレポートで、その対策もまとめてある」

「そっか。ならいいけど」


莉緒はそれだけ言うと、また自分の世界に戻っていった。この娘は、昔からそうだ。年齢の割に妙に達観していて、物事の本質を見抜くような鋭さがある。美沙緒がこだわる表面的な煌びやかさよりも、俺が向き合っている仕事の、その中身に興味を示す。そんなところが、少しだけ誇らしかった。


美沙緒は、そんな父娘の会話には興味がないようだった。彼女は完成した朝食プレートの写真を撮り終えると、満足げにスマホを置いた。


「さ、あなたも早く食べないと。今日は大事な会議があるんでしょう?遊佐さんたち部下の手前、トップが遅刻するわけにはいかないわよ」

「分かっている」


俺はコーヒーを一口すする。結婚して十七年。受付嬢だった美沙緒を見初め、結婚した。エリート商社マンの妻という地位は、彼女の自尊心を十分に満たしたようだった。彼女が望むものは、大抵与えてきた。このタワーマンションも、高級外車も、子供の私立学校も。それが夫の役目であり、家族を幸せにするということだと信じていた。

だが、いつからだろう。この完璧に整えられた空間に、どこか息苦しさを感じるようになったのは。家族の会話はいつしか表面を滑るようになり、美沙緒の笑顔はSNSのフォロワーに向けられている時間の方が長くなった。


「行ってくる」

「ええ、いってらっしゃい。頑張ってね、私の自慢のあなた」


美沙緒は玄関で、まるでドラマのワンシーンのように俺のネクタイを直し、頬にキスをした。その背後で、莉緒が冷めた目で見ているのに気づかないふりをした。

それが、俺の日常だった。脆く、美しいガラス細工のような日常。そのガラスが、この数時間後に粉々に砕け散ることになるとも知らずに。


朝のラッシュアワー。山手線の車内は、人いきれと様々な匂いで満ちていた。俺は吊革に掴まり、目を閉じて今日の会議の段取りを頭の中で反芻していた。いくつもの数字とデータが脳内を駆け巡る。あのプロジェクトを成功させれば、部長への道も確実なものになる。そうすれば、美沙緒もさらに喜ぶだろう。莉緒の進学先の選択肢も広がる。俺の肩には、家族の未来が乗っている。


電車が大きく揺れた。人の波がぐらりと動き、俺の体も前のめりになる。その瞬間だった。


「きゃっ!」


甲高い悲鳴が、鼓膜を突き破った。

何事かと目を開けると、目の前に立っていた若い女が、俺を睨みつけていた。震える指が、まっすぐに俺を指している。


「この人、痴漢です!」


時間が止まった。

車内のざわめきが遠のき、女の金切り声だけが耳にこびりつく。何を言っているんだ?俺は何もしていない。ただ、揺れで体が傾いただけだ。


「違います、そんなことは……」


俺が何かを言うより早く、周囲の視線が刃となって突き刺さる。疑い、軽蔑、好奇心。スマホを向ける者さえいる。


「嘘つかないで!さっきからずっと触ってたじゃない!」


女は泣きじゃくりながら叫ぶ。その演技がかった様子に、俺の頭は混乱の極みに達していた。

次の駅に着くと同時に、俺は複数の男たちに取り囲まれ、腕を掴まれた。駅員室へと引きずられていく。ホームに降り立つ人々の冷たい視線が、背中に焼き付いて離れなかった。


警察での取り調べは、悪夢そのものだった。

何を話しても、信じてもらえない。俺は東雲征一郎という個人ではなく、「痴漢の容疑者」という記号として扱われた。


「奥さんや会社に知られたくないだろ?認めちまえば、罰金払ってすぐに帰れるぞ」


疲れた顔の中年刑事が、そう囁く。それは悪魔の誘惑だった。だが、やっていないことを認めるわけにはいかない。俺は、無実を主張し続けた。


何時間経っただろうか。ようやく解放されたときには、夜になっていた。だが、本当の地獄はそこから始まった。

駅を出ると、俺のスマホが狂ったように震えだした。会社の同僚、友人、そして見知らぬ番号からの着信とメッセージ。何事かとニュースサイトを開いて、俺は絶句した。


『大手商社課長、通勤電車で痴漢の疑い。容疑を否認』


そこには、俺の顔写真がぼかしもなしに掲載されていた。記事のコメント欄、そしてSNSは、すでに炎上していた。


『エリートのくせにキモすぎ』

『こういう奴は社会的制裁を』

『家族が可哀想』


匿名性の陰に隠れた無責任な言葉の暴力が、俺の心を抉っていく。住所や家族構成までが特定され、晒されていた。世界中が、俺を犯罪者だと断罪している。


足が鉛のように重い。それでも、帰らなければならなかった。妻と娘が待つ、あの城へ。

震える手でマンションのエントランスキーをかざし、エレベーターに乗る。四十二階までの上昇が、永遠のように感じられた。

リビングのドアを開けると、仁王立ちになった美沙緒が俺を待っていた。その顔は怒りと絶望で歪んでいた。


「あなた……!これ、どういうことなの!」


彼女が突きつけてきたスマホの画面には、俺に関するネットニュースと、誹謗中傷のコメントが溢れていた。


「違うんだ、美沙緒。俺は何もしていない。これは何かの間違いなんだ。信じてくれ」


すがるような俺の言葉を、彼女は一笑に付した。


「信じる?何を!?日本中があなたを痴漢だって言ってるのよ!私の友達からも連絡が鳴りやまない!『旦那さん、大変ね』ですって!憐れまれてるのよ、私が!」


金切り声を上げる美沙緒の目は、血走っていた。心配しているのは、俺の無実ではない。傷つけられた自分のプライドと、崩れ去った虚栄の生活だけだ。


「恥ずかしい!恥ずかしい!なんであなたがそんなことを……!私の人生を、めちゃくちゃにして!」

「だから、やってないと言っているだろう!」


俺も、思わず声を荒らげた。そのときだった。


「うるさい」


静かだが、凛とした声が響いた。莉緒だった。部屋の隅で、ずっと黙って俺たちのやり取りを見ていた莉緒が、ゆっくりと立ち上がった。


「パパはそんなことする人じゃない。私、知ってる」


莉緒はまっすぐに美沙緒を見据えた。


「あなた、何を言ってるの!この状況が見えないの!?世間は……」

「世間?世間って誰?ママが気にしてるのって、ネットの書き込みと、ママ友からの見栄だけでしょ?パパのことなんて、これっぽっちも心配してないじゃない」

「なっ……!親に向かってなんて口を!」


激昂する美沙緒を、莉緒は冷たい目で見下ろした。

そのやり取りが、俺にとってのわずかな救いだった。この家には、まだ俺を信じてくれる人間が一人いる。


だが、その希望も長くは続かなかった。

翌日、会社の人事部長から電話があった。声は氷のように冷たかった。


「東雲君、残念だ。君が会社に与えたダメージは計り知れない。取締役会で決定した。君を、懲戒解雇とする」

「……そんな。俺は、長年この会社のために身を粉にして働いてきたんですよ!無実なんです!」

「証拠がないだろう。我々は会社のイメージを守らねばならん。わかるな?これは決定事項だ」


一方的に電話は切られた。あっけない幕切れだった。俺が人生を捧げてきた場所は、いとも簡単に俺を切り捨てた。

呆然と立ち尽くす俺の前に、美沙緒が静かに一枚の紙を置いた。


「サインして」


それは、離婚届だった。


「もう無理よ。犯罪者の妻なんて、まっぴらごめん。私の人生を返して」


彼女の瞳には、かつての愛情の欠片も残っていなかった。慰謝料、財産分与。欄には、法外とも言える額が書き込まれている。親権は、母親である自分が持つのが当然とでも言うように。


「美沙緒……頼む。考え直してくれ……」

「嫌。あなたと一緒にいるだけで、私の価値が下がる」


絶望。

その言葉以外に、今の俺を表す言葉は見つからなかった。社会的地位、名誉、築き上げてきた財産、そして、愛していると信じていた妻。その全てが、たった一日で蜃気楼のように消えていく。

俺は、膝から崩れ落ちそうになった。もう、何も残っていない。

そのとき、背後から小さな手が俺の肩に置かれた。莉緒だった。


「パパ」


莉緒は離婚届を手に取ると、ためらいもなくそれを真っ二つに引き裂いた。美沙緒が悲鳴を上げる。


「何するのよ!」

「お母さんこそ、何してるの。パパが一番辛いときに、やっていることがそれ?」


莉緒は破いた紙片をテーブルに叩きつけ、俺の前に立つと、まっすぐに俺の目を見た。その瞳は、少しも揺らいでいなかった。


「私、パパと一緒に行く。お母さんみたいな人と一緒にいるなんて、もう無理」


そして、震える声で、しかしはっきりと、もう一度言った。


「パパはやってない。私、知ってるから」


その言葉が、暗闇の底に突き落とされた俺の心に、かろうじて灯った一本の蝋燭のようだった。

世界中が敵になってもいい。妻に裏切られても構わない。

だが、この娘だけは。この娘が信じてくれる真実だけは、何があっても守り抜かなければならない。

俺は、床に散らばった離婚届の残骸をただ見つめていた。

偽りの家族は崩壊し、華やかな城は焼け落ちた。残ったのは、絶望の焼け野原と、そこに咲くたった一輪の小さな花だけだった。

復讐という名の種が、俺の心の中で静かに芽吹いた瞬間だった。

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