もうすぐ夏休みだというのに その8
おたおたする千紗の肘をぐいと掴むと、野村真由子は、三年四組の教室の前まで引きずって行った。
「お~い、菊池ぃ。菊池く~ん!」
真由子の声の大きさに、千紗は思わず身を縮ませる。真由ちゃんてば、声が大きすぎる。真由子の蔭に隠れるようにして教室を覗き込むと、窓際で談笑する菊池の後ろ姿が見えた。その隣には、あの、鮎川さやかの姿もある。
「菊池ぃ、菊池ってば! 聞こえてんでしょ」
真由子の遠慮ない声に、菊池がやっと振り返った。
「ちょっと、話があるんだけど」
真由子が、こちらへ来いというジェスチャーとともに言った。全部、今の千紗には逆立ちしてもできない芸当だ。
「おい、野村」
菊池が、近くまで来ると言った。
「お前の声、でかい!」
「悪かったわね。聞こえてるんなら、さっさと返事してよ!」
「だって、恥ずかしいだろ、あんなでかい声で呼ばれたら」
野村真由子にそんなことを言いながら、菊池は恥ずかしそうに頭を掻いている。
「だから悪かったってば。声が大きいのは、生まれつきなんだから、仕方ないでしょ」
「あれ、誰かと思ったら、ゴリエもいたんじゃん」
菊池が覗き込むようにして言った。
「おおお、おっす! ひさしぶり!」
千紗は、ひきつった笑顔でちょいと片手をあげた。今、自分は赤面しているかもしれないと思うと、穴を掘って入りたかった。
「おう、今朝の下駄箱以来だな」
菊池は千紗を見てにやっと笑った。
今朝の下駄箱、と言われて、千紗はますます動揺した。朝、下駄箱で菊池と遭遇した千紗は、山田菜緒も一緒だということに勇気を経て、理想の挨拶をしようとしたのだった。それは自然な笑顔で菊池に近づき「おはよう」という、それだけのことだ。
笑顔で下駄箱に入るまでは上手くいっていた。ところが菊池が振り返り、千紗に気付いておっとと言う顔になった途端、自分でも説明の付かないスイッチが入ってしまい、菊池が何か言いかけたのを、あきれるほどほどわざとらしくスルーして、山田菜緒すら置いてけぼりにして、その場から走って、逃げ出してしまったのだった。
その、千紗にとっては、思い出したくもない黒歴史を、こうやってしれっと触れてくる菊池は、本当に意地悪だと思う。
「ところで、何の用だ」
千紗が一言も言い返せずに、目を白黒させている間に、菊池は由子に聞いた。
「ねぇ、知ってる? 去年の二の五で、花火大会やるんだって」
真由子は、ちょっともったいつけて、話を始めた。
「は~ん、あ、そう。だから?」
「だからさ、うちもやろうよ。二の一で久しぶりに集まって、花火大会」
「やれば」
それだけ言うと、菊池はきびすを返して帰りかけた。




