帰り道 4 (最終回)
角をまがった瞬間、このままでいいの、と、千紗の中で声がした。
このまま何も話さないまま、菊池と別れてもいいの? こんなふうに一緒に歩ける時なんて、もうないかもしれないのに。家までの道は、あと少しで終わるのに。
そこまで思うと、千紗は大きく息を吸った。
「今となったら、本当にたいしたことじゃなかったんだけどね」
そう言って、千紗は足もとの小石を一つ蹴った。
「あの日、お母さんが玄関で倒れてさ」
菊池がちらっと千紗を見たが、千紗はアスファルトに視線を落としたまま、淡々と話を続けた。
「あの日、あたしは、のんきに夏祭りになんか行っていて、お母さんが玄関で倒れたとき、家にいたの、弟だけでね。慌てたよ。あんな具合悪そうな母さん、見たこと無かったから。すごく熱も高くてね。それなのに、家に氷がなくって。それで慌てて買いに行ったの。その時、コンビニでばったり会ったってわけよ」
そう言って、千紗は小さく肩をすくめた。
それから千紗は、その日の出来事を菊池に話した。具合の悪い母を前に、じたばたするばかりで何もできなかったこと。祖父母が来た途端、いろんな問題があっさりと解決してしまったこと。自分はもう大人だと思っていたけれど、まだまだ子供だと自覚し直したこと。
「それで、ゴリエの母ちゃん、元気になった?」
千紗がすっかり話終えると、菊池が口を開いた。
「うん。もうすっかり」
街灯につかまってぐるっとまわりながら、千紗が答えた。
「よかったな」
菊池が心から言った。
「やっぱ、母ちゃんは元気でいてくれないと、凹むよな。俺たちまだ、ガキだもんな」
「うん、ほんとにそう」
実感を込めて同意した。それでも、と、千紗は思う。今日より明日、明日より明後日、あたしは大人になっていきたい。大人になって、強くなって、ちゃんと自分の足で立てる人になりたいんだ。
いつの間にか、千紗の家の前まで来ていた。ゆっくり歩いたつもりなのに、何ならちょっと遠回りをしたのに、思ったよりずっと早く着いてしまった。
「ここがゴリエんちか」
千紗の家を見上げ、菊池が言った。
「うん」
千紗は、何だかこそばゆい気持ちで言った。
「こっから、お前の部屋って見える?」
「あの二階の窓が、そうだけど」
菊池は、指し示された窓を見て、
「ふうん・・・」と、一言。
「ふうんって何よ」
千紗は、何だか恥ずかしくなって菊池に噛み付いた。
「別に」
そう言いながら、菊池はずた袋を千紗に渡した。
「ありがと」
千紗が笑顔で受け取る。
菊池は、バケツを右手に持ち替えると、視線を落として、足下の小石を転がし始めた。それを、なんとなく千紗も一緒になって見つめる。下を向いている二人の中学生を、街灯が静かに照らしている。
「そう言えば、ゴリエ、期末の数学、何点だった?」
顔を上げて、菊池が千紗に尋ねた。
「え? あたし、97点だった。菊池は?」
千紗には、97点と聞いて、菊池がぎくりとした様に見えた。
その顔を見ただけで、千紗はもうわくわくしてしまう。どうやら今回の勝負は、あたしが勝ったらしい。
菊池は何も言わずに、再び小石集めをしていたが、急に何を思いついたのか、
「あ、そうだ。お前、明日三時に、今日のコンビニに来い」
と言った。
「え? 明日?」
明日もまた会えるって事? 千紗はくらくらした。
「午前中は、俺、塾があるから、時間は三時だ」
「う、うん」
「そいで、この夏、母ちゃんの看病を頑張ったご褒美に、俺がアイスを奢ってやる」
「ははぁ」
千紗は笑いがこみ上げてくる。色んな事がごちゃごちゃと嬉しい。
「それは嬉しいけどさ。数学のテストは、どうなってんのよ。菊池は何点だったの? 勝ったの、負けたの? ていうか、負けたんだよね。正直に言ってみ?」
「いや、アイスは、ご褒美に奢ってやるって話だから」と、菊池は頑固に言い張る。
千紗はもう、笑いが止まらない。菊池の奴、どんだけ負けず嫌いなんだ。
「そうなんだ、わかった。とりあえず、明日の三時に、コンビニの前に行けばいいんだね」
なんだか、去年の夏のあの日みたいだ、と、千紗は思う。奇跡なの、これ。
「おお、そうだ」
「で、何点だったの? 実際」
千紗がしつこく尋ねると、菊池は小声で「90」と言った。
「でも、90って、悪くないぜ。俺のクラスの平均点65点だったし」
「うんうん、そうだね。でも、負けは負けだよね」
千紗はもう、心の中の嬉しさが、弾け飛びそうな気持ちだ。
「くそう、次は絶対勝つからな」
「いやいや。次もあたしが勝つから」
千紗があまりにも嬉しそうなので、菊池もつられて笑ってしまう。
「しょうがねぇな、もう。とにかく、明日、三時な」
「うん。三時だね。わかった」
千紗が答えると、菊池は満足そうに頷いた。
「じゃあな。もう遅いから、お前もさっさと家に入れ」
そう言うと、菊池は歩きだした。
「あのさあ」
菊池が五歩も歩かないうちに、千紗はその後ろ姿に声をかけた。ひょいと振り返る菊池に、
「ええっと、あの」
千紗はもじもじしながら言った。
「塾の宿題、頑張れよ、徹夜でね」
「け、うるせえや」
そう言い捨てて歩き出した菊池に、すぐにまた「あのさあ」と声をかけた。
「何だよ」
再び振り返る菊池に、千紗は少しためらった後、思い切って聞いてみた。
「あの夏祭りの日、港の花火大会に行ったの? 鮎川さんたちと」
「行ったよ」
菊池があまりにあっさりと肯定するので、千紗は膝の力が抜けて、しゃがみ込みそうになった。
「でも、人が多過ぎて花火は良く見えねえし、女子はギャアギャアうるせえしで、あんまり面白くなかったけどな」
菊池は眉間にしわを寄せてそういうと、
「今日の方が、ずっと楽しかった」
と、小さく付け加えた。
それから菊池は、
「じゃあな。俺、帰るから。お前も家に入れ。いい加減、遅いんだから」
と言って、歩き出した。
うん、と小さく返事はしたものの、千紗はそこを動かなかった。街灯に照らされて、どんどん遠くなっていく菊池を、ずっと見ていたかったから。
菊池は一度だけ振り返り、まだ家の前にいる千紗を見て、しっしっと手を振り、家に入れと促した。それから前を向くと、一気に走りだし、闇の中に見えなくなった。




