もうすぐ夏休みだというのに その5
家に帰ると、千紗は、母が用意しておいてくれた冷やし中華を一人で食べ、まずは睡眠不足を補うことにした。
部屋に戻り、いそいそとベッドカバーを外しながら、菊池とさやかのことなんて、どうでもいいことだと、自分に言い聞かせた。そんなことで落ち着かなくなるなんてあたしじゃないし、そんなことで試験勉強に影響が出るなんて、馬鹿のすることだ。
千紗は、ふんっと勢いをつけてベッドに飛び込むと、ちょっと寝たらしっかり勉強するぞ、という強い決意のもと、目をつむった。そして吸い込まれるように眠りに落ちた。
次の瞬間、目を覚ますと、部屋の中はすっかり暗くなっていた。千紗は半分寝ぼけながら、上半身を起こした。随分暗いなぁ。今、何時だろう。耳を澄ますと、台所から料理をする物音が聞こえる。母親が夕食の支度をしているとすると、もう七時近いはずだった。千紗は慌ててベッドから出ると、階下へ降りて行った。
「あら、起きた?」
母が、娘を振り返ってから言った。
「うん」
「良く寝ていたわね」
「うん、でもまだ寝足りない感じ。お母さんは、いつ帰ってきたの?」
「ん~、四〇分くらい前かな。晩御飯できるまでにまだ少し時間がかかるから、あなた先にお風呂に入ったら?」
「ああ、そうしようかな。ところで、伸行は?」
「支度して、塾へ行ったみたい」
「けっ」
こちらが眠りこけている間に、自分で立てた計画に粛々と従って行動していたらしい弟を思うと、千紗は面白くなかった。全くあいつは、真面目というか几帳面というか、人間としての面白みってもんにかけるよな。だいたい、物事、なんでも予定通りやればいいってもんじゃない。人生は、出たとこ勝負。大切なのは瞬時の判断力と行動力なのだから。ああいうのに限って、いざって時には役に立たないもんなんだ。
腹の中で散々毒づいてはみたが、今日、これからやらねばならない膨大な量のテスト範囲を考えると、千紗は何とも言えない苛立ちと共に、気が重くならざるを得なかった。きっと伸行なら、一週間も前からコツコツ準備をするだろうと思うと、ますます弟が忌々しかった。
とはいえ、ゆっくりとお風呂に入ってこわばった体をほぐし、さらには栄養満点の夕食をお腹いっぱい詰め込んだ頃には、千紗もかなり元気を取り戻していた。台所で、眠気予防のコーヒーを入れていると、玄関で「ただいま」と、弟の伸行の声がした。
「お帰り」
千紗は、弟に聞こえるように、玄関に向かってどなった。
「今日の晩ご飯は、コロッケ、冷や奴、わかめとネギの味噌汁にキュウリの酢の物だよ。酢の物と冷や奴は冷蔵庫」
すると、
「うるせぇなぁ。姉ちゃんの声は、でかすぎんだよ」
と、伸行は不機嫌全開で言い返してきた。カチンときたが、千紗は賢くも喧嘩をふっかけたりはしなかった。最近、苛々していることが多い弟の不機嫌を一々相手にしていたら、こちらの身が持たない。ここはさっさとコーヒーを持って、自分の部屋に戻ろうっと。
千紗が、コーヒーと茶菓子を盆に載せていると、疲れて顔色の悪くなった伸行が、台所に入ってきた。冷蔵庫を開けて、酢の物と冷や奴を取り出している。千紗は、武士の情けで、味噌汁を温めてやった。
「ほれ。お味噌汁」
千紗が湯気の立つ椀を渡すと、
「お姉ちゃん」
と、伸行。
「ん?」
「お父さんのうちさ、子供が生れるらしいよ」
「え?」
コドモガウマレルって、どういう意味だっけ。千紗が眉間にしわを寄せたまま動けなくなっていると、さらに一言、
「冬頃には、僕たちの下に、弟か妹が出来るんだってさ」
「そそそ、そんなこと」
千紗が目を白黒させる。オトウトかイモウト? 何の話だ。
「それ、あの人から聞いたの?」
「うん」
「あんた、この話、お母さんに言った?」
千紗は思わず、小声になりながら言った。母は今、入浴中だ。
「言ってないよ、もちろん」
伸行は、ため息のような声を出した。
「今、お風呂に入っているんでしょ。だからお姉ちゃんに話した」
「そう・・・」
それだけ言って、千紗はコーヒーの盆を取り上げた。
「ねえ、お姉ちゃん、どうしたらいい?」
「どうもしないよ。関係ないし」
「でもお父さん、僕たちの兄弟が生れるって言ってたよ」
「兄弟じゃないよ。兄弟じゃない」
千紗は、コーヒーがこぼれるのもかまわず、激しく首を振った。
「嘘だ。兄弟だよ。だって、父親が一緒だもの」
「そう言う意味じゃなくってさ」
千紗はじりじりしながら言った。
「あの人は、あたし達を捨てて、新しく家庭を作ったんでしょ。だから、そこで何があったって、あたし達には関係ないって話」
「でもさ」
「煩いな。あたし、知らないよ」
千紗は、コーヒーがこぼれたままの盆を持って、自室に駆け込んだ。
部屋に着くなり、机に盆を置いて、ベッドに飛び込む。枕に顔を押しつけて、千紗はぎゅっと目を閉じた。何が何だか、よく分らなかった。ただ、閉じた目から、涙が染み出てきた。嫌だ,嫌だ、嫌だ。枕を抱きしめながら、千紗は思った。こんなの、嫌だ。こんなの、すごく嫌だ。
上手く説明出来ない感情が、マグマのようにわき上がってくる。千紗は必死になって、その感情を落ち着かせようと戦った。明日、試験なのよ。中三だから、全部の試験が大事なのよ。だから、今、こんな風に泣いている場合じゃないのに。でも、動けない。嫌すぎて動けないよ。どうすればいい? どうすればいい? 千紗はしばらくそうやって、ベッドで枕を抱きしめ続けた。
小一時間ほども、そうしていただろうか。千紗はもっさりとベッドから起き上がると、椅子に座った。教科書とノートを取り出し、シャープペンシルを握る。そうしている間にも、説明のつかない涙が、後から後から涙がこぼれてくる。負けてたまるか。千紗は思った。あたしの人生なのよ。誰にも邪魔されるもんか。
顔を振って涙を払うと、千紗は、ノートに書かれた地名を、書きながら唱えだした。