姉と弟 3
何者かに体をぐいと後ろに引っぱられた。頭に血が上っている千紗が、乱暴に振りほどこうとしても、その力は怯まない。思わず千紗が振り向くと、驚いたことに藤原新平が、真面目な顔で首を横に振っている。
「?!」
千紗が呆然としている間に、藤原はさらに千紗を鞄ごと引っ張ると、とうとう部屋の奥の階段のところまで、連れて行ってしまった。
「なによ。何なのよ」
ひそひそ声で千紗が抗議すると、
「やめた方がいいって」
と済まして言う。
「やめるって、何をよ」
「飛び出していって、ぶっとばすつもりだったんでしょ、あの小学生たちをさ」
「そうよ。だから何よ。小学生だからって、あんなひどいの、放っておけないでしょ。邪魔しないでよ」
千紗が小声でいきり立つと、
「それで図書館で大騒ぎしてさ、全員、出入り禁止になったらどうすんの。ここ、結構厳しいって聞いたぜ」
と、まるでからかうような調子だ。
「だったら、一っ声も上げずに、あいつら束にしてぶん投げてやるまでだわ」
千紗が、一歩も引かない構えでそう言い放つと、藤原が急に真顔になった。
「それでどうすんの。あんたがあいつらぶん投げたら、明日から、あのいじめられていた奴に、平和が来るとでも思ってるわけ」
「え?」
思いがけない藤原の言葉に、千紗は言葉を失った。
「あれ、多分六年生でしょ。六年にもなった男がさ、中学生の女子に助けられるって、かっこ悪いって言うか、面目丸つぶれだと思うけど、俺なら」
「で、でも」
その時、話でもついたのか、先ほどの三人組が現れた。
彼らは、獲物を取り損ねたのか手ぶらなままで、憮然とした顔でエレベーター乗り場へ歩いて行く。
千紗はぐっと拳を握りしたまま、いじめっ子たちの後ろ姿を睨み付けた。三人組は、千紗にぶん投げられることもなく、無事にエレベーターに乗って行ってしまった。
「あのやられていた奴、もしかして、夏祭りに来た、あんたの弟?」
千紗と一緒に階段を下りながら、藤原が口を開いた。
「まあね」
千紗が渋い顔で答えた。
「はあん。兄弟でもだいぶん感じが違うね。でも、顔は似ているかもな。そう思ってみれば」
藤原は、伸行の顔でも思い出しているのか、きょろりと天井に視線をやった後、ちょっと笑った。
「でもさ、あたしたちって、性格が真逆なんだよね。弟はさ、すごく真面目で几帳面で、ちょっと神経質なところがあるんだ。繊細って言うかね。最近、やたらイライラしていると思ったら、こういうことがあるからなのかな」
千紗は、ため息混じりに言った。
「でもさ、案外見所あるんじゃないの、あんたの弟」
千紗は、ちょっと驚いて、藤原を見た。
「だってさ、少なくとも、あいつらの言うなりには、ならなかったみたいじゃん」
「そりゃ、今日はそうだったかもしれないけど、あいつらきっと、また来るでしょ」
「まあね。でも、もし、ここであいつらに負けなかったら、もし、自分であいつらを追っ払えたら、男になれると思うぜ、あんたの弟。姉ちゃんに助けられるより、その方が、あいつにとっては、ずっといいんじゃないの」
「・・・・・・・」
千紗は、何だか不思議なものでも見るような目で、藤原を見た。藤原はいつも通り、もじゃもじゃ頭のライオン狸だったけれど、千紗には何だか、いつもより凛々しく見えた。
藤原はこんな風に、時々、千紗をハッとさせるようなことを言うのだが、不思議なのは、辛辣なのに、なんだか心の奥を、ぽっと暖かくすることがあるってことだ。ひねくれ者だし、皮肉屋だけど、でも、藤原は、本当はとても良い人だと、千紗は思う。
その日の帰り道、千紗は、先ほど見た出来事と、藤原の言葉を交互に思い出しながら、この後、自分がどう振る舞ったらいいのかを考えた。自転車を引いて歩きながら、じっくり考えた。そして結局、当分は、このまま何も知らないふりをするのが一番いいだろうと、結論づけた。
伸行も、もう六年生だ。姉にあれこれ言われる年でもないのかも。でも、やっぱり心配は心配だから、あいつの様子は、気をつけて観察していよう。その上で、本当に心配になったら、その時はお母さんに相談してみよう。
その日、千紗が帰宅したそのすぐあとに伸行も帰ってきたが、いつもと同じ、ちょっと不機嫌そうな、いつもの伸行だった。だから千紗も、いつもと同じように、雑に弟を扱った。中途半端な同情なら、されない方がまし。それはきっと、伸行も同じだろうと思った。
それでも、小さな変化はあった。風呂掃除やトイレ掃除など、千紗がいつの間にかやってしまっていることが多くなった。
食事の後片付けも、千紗がやってしまうことが、なんとなく増えた。そして、少しくらい伸行がイライラしていても、千紗が突っかかっていくことが減った。
でも、千紗が、自分の行動の変化を、目立たせないように、さりげなく行ったために、何だか最近、兄弟げんかが減ってきた感じがするくらいにしか、母も弟も気がつかなかった。




