姉と弟 2
さて、そんなある日のことだ。
英語の長文問題と格闘し終えた千紗は、ふと空腹を覚えて顔を上げた。時計を見ると、もう一二時半を過ぎている。
むっふふふ。思わず口元に笑みが浮かぶ。図書館に来たのは九時だから、今日の午前中は三時間以上勉強したことになる。お腹も減ってきたし、そろそろ帰るか。千紗は、手早く問題集をしまうと、荷物を持って立ち上がった。
トイレにより、エレベーターではなく、階段を使って下りることにする。千紗はどうも、エレベーターが苦手なのだ。なので、トイレの奥に階段を見つけてからは、ずっと階段を利用している。
朝も、重たい鞄を抱え、四階まで階段で上がる。息が上がるが、体中を血が巡って、むしろ頭ははっきりするような気がする。冷房の効いた館内では、汗もすぐに引くし、呼吸を整えて机に向かうと、不思議にすっと勉強に入れた。
さて、ハンカチで手を拭き拭きトイレから出てきた千紗が、小さく鼻歌を歌いながら、三階に下りてきたときだった。
広いフロアの奥の方から、何やらからかうような子供の声がする。あたりを気遣ってか、ひそひそと押し殺した声ではあるが、静まりかえった空間では、かえって響くというものだ。声の感じから、平和なやりとりではないのが、千紗にはわかった。
どうしてだかわからないが、千紗は、本能的に嫌な胸騒ぎを覚え、そのまま三階のフロアに入って行った。声のする方に足音を忍ばせ、近づいて行く。本棚を盾にしてそっと奥をのぞき込むと、三人の少年が、自習机に向かっている伸行を囲んでいるのが見えた。昼時なためか、部屋の中はほかに人影がない。少年たちは、それを十分に承知し、そこにつけ込んで大胆になっているようだった。
「だから、夏休み帳はどうしたのかって、聞いてるだろうが」
「持って来いって言っておいただろう。早く出せよ」
伸行は、参考書に向かったまま、置物のように動かない。
「しばらく見かけないと思ったら、こんなところに隠れやがって。結構、探したんだからな。なんで、あっちの図書館に来なくなったんだよ」
「へ、逃げたんだろ、弱虫」
耳障りな甲高い声を上げたのは、明らかに子分格と思われる小柄な少年だ。
「どこに逃げたって、こうやって必ず見つけ出されるだけなのに、ばかめ」
口々に言いたい放題だ。
「おい、固まってねぇで、なんとか言ったらどうなんだよ」
三人の中で一番体の大きな少年が、いらだったような声を出した。
「こんなのいいから、早く夏休み帳をだせっての」
少年が乱暴に、机の上のノートや問題集を振り落とした。すると、それまで置物のようにじっとしているばかりだった伸行が、さっと身を翻して下に落ちたものを黙って拾うと、また元通りに腰をかけた。
「けっ、ちゃんと動けんじゃねぇか」
少年たちは、小馬鹿したように笑うと、
「おい、どうすんだよ。お前が夏休み帳持ってこないと、俺らの夏休みの宿題、終わんないんだよ。わかってんだろ」
と、再び机の上のものを振り落とした。
今度は、伸行は動かない。動かない伸行を、ガキ大将が小突いた。すると、残りの二人がそれに続いて「おい、わかってんだろうな」といいながら、次々に伸行の頭を小突いた。小突かれた反動で、伸行の小さな頭が、右に左に揺れている。
それを見た瞬間、千紗の目の奥がかっと熱くなった。もう、我慢できない。弟をいじめる奴は、あたしが相手になってやる。千紗は、目の奥の熱さもそのままに拳に力を込め、ゆっくりと一歩大きく踏み出そうとした。その時だった。




