伸行の思い
その晩、千紗と伸行、それに祖父母の四人で、賑やかに夕食の食卓を囲んでいるときのことだ。
食卓の向こうで、焼きたて熱々のあじの干物を、箸でつつくばかりで、ちっとも食べようとしない伸行を、千紗はイライラと見ていた。
干物は焼きたてが一番美味しいのに、何でわざわざ不味くなるようなことをするんだろう。まさか、祖父母の前で、弟にがみがみ言うわけにも行かず、千紗は弟を睨み付けながら、味噌汁を一口飲んだ。わかめと豆腐の味噌汁は、ふわりとだしの香りがして、母の作る味噌汁とよく似ていた。
伸行は、ぼんやりと干物をつついていたが、ふと顔を上げると、思い詰めたような顔で、祖父を見上げた。
「ねぇ、お祖父ちゃん。お祖父ちゃんは、塾とか全然通わないで、大学に受かったんだよね」
「え?」
祖父は、ちょっと驚いたように、伸行を見た。
「うん、そうだよ。でも、ま、浪人もしたけどね」
祖父はそう言うと、干物の身を箸で器用に取り出した。そこに大根おろしをのせて、口に放り込み、間髪を入れず温かなご飯を頬張る。その一連の仕草を、千紗はほれぼれと眺めた。お祖父ちゃんって、なんておいしそうにご飯を食べるんだろう。
「浪人しているときも、全然、塾に行かなかったの?」
それに比べて、伸行の干物はちっとも減らない。ついでに、大根おろしは辛いからと、なしにしている。大根おろしを添えると、干物の味は、よりいっそう美味しくなるっていうのに、本当に、あいつは何もわかっちゃいないんだから。そうやって、好き嫌いばっかり言っているから、いつまでもしなびてるんだぞ、お前は。千紗は心の中で舌打ちをする。
「行かなかったなあ。だってほら、そのときにはもう、お祖父ちゃんのお父さん、つまり伸ちゃんのひいお祖父ちゃんになるけれどもね、死んてしまっていたからね。お祖父ちゃんには、弟の圭介おじさんと、妹の良枝おばさんもいたから、塾に通うお金なんて、なかったんだよ」
おっとりと話しながら、祖父は、きゅうりのぬか漬けを箸でつまみ上げると、ポリポリと爽快な音を立てながら食べた。千紗もすぐにまねて、きゅうりを口に放り込む。
「でも、それでも一番行きたい大学には、ちゃんと受かったんでしょ」
ポリポリと、小気味よい音を立てながら、千紗は横目で弟を睨み付ける。ごちゃごちゃ言ってないで早く食べろ、と言う言葉が、口から飛び出しそうになったが、何とか堪えた。
祖父は箸を置くと、真剣な表情の伸行に向き合った。
「そうだよ、伸ちゃん。でも、どうして急に、そんなことを聞くんだい」
「僕にも出来るかなって思って」
伸行が、急に蚊の鳴くような声で言った。
「僕にもって、何をだい」
「つまり、僕も塾に行かずに、中学受験をするってこと。どうかな、ねえ、お祖父ちゃん、塾に行かなくても、合格出来ると思う?」
「そうだなあ・・・」
祖父は腕組みをしてちょっと考えた後、話を続けた。
「まず、お祖父ちゃんの話をするとね、その時、お祖父ちゃんはもう、一八歳だったんだ。だからもし、お祖父ちゃんが、今の伸ちゃんと同じ年だったらどうだったかと言えば、正直、わからないな。それに時代も違うように思うよ、お祖父ちゃんの頃とは」
「それ、僕にはできないってこと?」
「いや、そうじゃないよ。そうは言ってない。だけど、せっかく塾に行けているのに、なぜ伸ちゃんは、そんなこと言うのかい。塾で何か嫌なことでもあるのかい?」
「だって、僕が塾をやめたら、お母さん、倒れるほど働かなくてもいいでしょ」
急にテーブルがしんとなった。祖父は、一瞬、驚いたような表情を見せ、ちらっと祖母に視線を送った。たが、すぐにいつもの穏やかな笑顔になると、こう言った。
「伸ちゃん。お母さんが倒れたのは、伸ちゃんを塾に行かせるために、頑張りすぎたからじゃないんだよ。お母さんは、ただ、休むべき時に、きちんと休みを取らなかったから、疲れをためてしまっただけなんだよ」
「違うよ。僕にはわかってる。塾の費用のために、仕事を増やしたんだ。疲れていても、休めなかったんだよ。お母さんは悪くない」
箸を握りしめた手を見つめながら、絞り出すように、それでもきっぱりと伸行は言った。
伸行の言葉に、千紗の喉がぎゅっと塞がった。そして、ああ、いけない、と思う間に、目の前の伸行がぼおっとかすんだ。千紗は、ご飯茶碗を手に持ったまま、自分で出来うる最高速で、瞬きをして、何とか目の緊急事態を収拾した。
「もちろん、お母さんは悪くないさ」
祖父は、伸行に大きく頷いて見せた。
「お母さんは、いつも、君たちのために、本当によく頑張っているよね。それはお祖父ちゃんもお婆ちゃんも、ようくわかっているよ。でもね、やっぱりちょっと、反省してほしいところもあるな。お母さんには、もっと自分の体を大切にしてほしいんだ。無理をして体をこわしては、元も子もない。お母さんはもう大人なんだから、そこは工夫できなくちゃいけないと、お祖父ちゃんは思うよ」
黙ってうつむく伸行の瞳から、一粒、二粒、涙がこぼれる。祖父はさらに言葉を続けた。
「もし、今回のことが理由で、伸ちゃんが塾を辞めたりしたら、それこそお母さんはがっかりするだろうな。とてもがっかりすると思うよ」
「・・・・・・」
「伸ちゃんが、希望の中学校に行くために頑張る。お姉ちゃんが、希望の高校に行くために頑張る。それを応援するために頑張ることは、お母さんにとっては、とても嬉しいことなんだよ。子供たちのために頑張ることは、むしろ喜びなんだ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんもそうだから、きっと間違いないと思うよ」
「じゃあ、僕、どうすればいいの? お母さん、治ってもまた同じくらい忙しかったら、また倒れるかもしれないよ。こういうことの繰り返しになるんじゃない?」
「繰り返しにはならないさ」
祖父がきっぱりと言いきった。
「お母さんは、今回のことからきっと、いろいろ学んだはずだよ。きちんと休みを取ることの大切さとかね」
「意地を張らないで、時には親の助けを借りるとか」
祖母がおっとりと付け加える。
「そうだ。時には、周りの誰かに、助けてと言えるたくましさが必要だってことも、きっと学んだと思うよ。それに、お祖父ちゃんたちだって付いているんだから。だから、いいかい」
と言って、祖父は、子供たち二人を見回した。
「二人はね、心配しないで、今まで通りやっていけばいいんだよ」
しばらく黙って考え込んでいた伸行だが、
「わかった。とにかく今は、一生懸命勉強する。あとは、しっかりお手伝いをするよ」
と言った。
「あたしも」
千紗も、喉を塞いでいた何かを、ぐっと飲み込むと口を開いた。
「あたしも一生懸命勉強する。そして、お母さんを手伝う。あとは・・・、あとは、なるべく兄弟喧嘩をしないようにする」
「それでいいんだよ」
二人の言葉を聞いて、祖父がにこにこと頷いた。
「さあさ、それじゃ、ご飯を食べてしまいましょ。そしたら食後にスイカを切るわ」
祖母が明るい声で、言った。
「わーい、スイカだ」
喜ぶ伸行に、
「あんた、スイカの前に、お魚、残さず食べなさいよね」
と、千紗が鋭く言うと、
「うるせぇ、ばばあ!」
と、伸行が威勢の良い声を上げた。
「ばばあってなんだよ! 誰に向かってものを言ってるんだ」
千紗が、今日一番の勢いで凄むと、
「ちょっと、ちょっと、いま、喧嘩しないことにしたって、言ったばかりじゃないの」
と祖母が慌てて言い、祖父が大きな笑い声を上げた。
「君たちのお母さんも、よく弟の透おじさんと喧嘩をしてたぞ。ま、子供は元気が一番。威勢のいいのはけっこうだよ」
そういうと、また笑った。




