翌日 3
昼過ぎに、いい加減、空腹を抱えて家に戻ると、祖母が母に昼食を持って行くところだった。お盆の上には、一人用の土鍋とご飯茶碗、梅干しと鰹節の入った小皿などが載っている。
「あら、ちいちゃん、お帰り」
祖母は時々、千紗をこんな風に呼ぶ。まだ、伸行の生まれる前、よちよち歩きの頃の千紗の呼び名だ。
「お母さん、お昼食べるの? 食べられるって?」
千紗が嬉しくなって尋ねると、祖母がにこにこしながら頷いた。
「少し食欲が出てきたみたいよ。お姉ちゃんも、今までずっと、図書館で勉強していたの?」
「うん」
「伸ちゃんは、ちょっと前に帰ってきたのよ。ここの家の子供は、よく勉強するわね」
「そんなこともないけど、まあ、受験生だからね、二人とも」
千紗は、祖母に褒められ、ついつい格好つけてしまう。
そうかそうか、あいつ、あたしより先に帰ってたのか。千紗は思わずニヤリと笑った。自分の方が遅くまで図書館にいたという事実は、千紗の自尊心を心地よくくすぐった。
朝も先に起きたし、図書館にも長くいたし、なんだかんだいって、あたしの方がしっかりしてるって、お祖母ちゃんは思っただろうな。ま、実際、あたしは、やるときはやるんだから、まるっきり嘘ってわけでもない。
「それで、先に帰ってきているはずの伸行は、どこにいるの?」
「それがね」
と、祖母が、言った。
「伸ちゃん、帰ってきてすぐに、お使いに行ったのよ。お祖母ちゃん、卵を買い忘れてね。そうしたら、図書館から帰ったばかりの伸ちゃんが『なら、僕が行ってくる』って言って。『明日の朝食用だから、夕方にでもまた私が買いに行けばいいから』って言ったのに、『お祖母ちゃんにもう一度買い物に行かせるのは悪いから』って。ほら、荷物もそこに置いたまま」
見れば、上がりかまちの隅に、勉強道具の入った手提げが立てかけてある。
「え、あ、そうだったの」
千紗は、早くも顔を引きつらせながら、相づちを打った。
「お腹ぺこぺこだろうから、せめて、お昼食べてからにしたらっていったのに、今、このまま行っちゃった方がいいからって言って。そんな気を遣わなくてもいいのに」
伸ちゃんはどこまで心の優しい子なんでしょうと、感に堪えたように話す祖母に、千紗なりに笑顔で同意しようと思ったが、心が全く伴わないので、鰐がけいれんしたみたいな顔になった。
まったく、あいつは。油断しているとすぐこれだ。あたしだって、先に戻ってりゃ、お祖母ちゃんに代わってお使いに行ったのに。でも、あたしだったらきっと、お昼をたっぷり食べてからだろうけど。
千紗には、昼ご飯をたらふく詰め込み、お腹をさすりながらだらだらしている自分が、簡単に想像できた。そして、だらだらしてばかりで、いつまでたっても買い物に行かない自分も。やっと思い腰を上げるのは、三時を過ぎているだろう。そしてその頃には、伸行はとっくに午後の勉強をしに行っているだろう。
どうも、自分には改善すべきところもあるようだと思う千紗だ。非常にむしゃくしゃする話ではあるが。
祖母の後ろから寝室に入って行くと、ベッドで本を読んでいた母が、目を上げた。
「あら、千紗、お帰り。午前中、図書館に行っていたんだって」
まだ顔色は良くなかったが、声には張りが戻っている。
「うん。あの、駅前に新しくできた方の図書館に初めて行ってみたの。きれいだし空いているし、なかなかだったよ。あたし、しばらくは、あそこで勉強しようかと思って」
千紗は、ベッドの端に腰を下ろしながら言った。
「そう、それはよかった」
千紗の言葉を聞いて、母は少し嬉しそうだ。
「お母さんこそ、気分はどう?」
「うん。だいぶん楽になったわ。点滴が効いたのか、昨日はゆっくり眠れたし」
「ほんと? よかったあ」
千紗の喜ぶ顔を見て、母がしんみりと言った。
「千紗にも伸行にも、心配かけちゃったわね。ごめんね」
「ううん、ううん。そんなこといい。そんなこといいから、あんまり無理しないで、お母さん。このところずっと無理をしてたでしょ」
「そうですよ」
と、祖母がすかさず同意した。
「ずっと休み無く走り続けたから、疲れが出たのよ。良い機会だから、ここはしっかり休養してちょうだい、子供たちのためにもね。さ、おかゆ炊いたから、さめないうちに召し上がれ」
そう言いながら、祖母はてきぱきとかゆを茶碗によそうと、お盆の上にのせて、半身を起こした母の膝に置いた。祖母と千紗がじっと見守る中、母は、ふうふう冷ましながら、熱いおかゆを一口、口に運んだ。ゆっくり味わうように飲み込む。
「ああ、おいしい」
「よかった!」
「よかったわ」
母の言葉に、千紗も祖母もほっと笑顔になった。
「まだ、胃は疲れている感じなんだけど、不思議におかゆはすっと入る感じ」
湯気の立つ茶碗を眺めながら母が言いうと、
「そりゃ、おかゆはそう言う食べ物ですからね。なんたって、回復期には、おかゆが一番と昔から決まっているんですから」
祖母は得意げだ。
祖母は、母が、一さじ一さじ丁寧に口に運ぶ様子をしばらく眺めた後、「さて」と膝を打って立ち上がった。
「お母さんもこれで落ち着くだろうから、ちいちゃん、私たちもお昼にしましょう。もうじき、伸ちゃんも帰ってくるだろうからね。お昼は冷やし中華にしたわ。ちいちゃんの大好物でしょ」
わーい、やったーと叫ぶより先に、千紗のお腹がぐうっと鳴った。慌ててお腹を押さえる千紗を見て、祖母と母が朗らかな笑い声を上げた。




