お母さんが倒れた! 3
思ったより時間を食った。千紗は、走りながら思った。家で一人、不安に押しつぶされそうになりながら、自分を待っている弟を思うと、ベッドに横たわるやつれた母を思うと、胸が苦しくなった。
一刻も早く家に帰らなければ。行きよりさらに長く感じる帰り道を、重たい買い物袋をぶら下げて、息を切らして必死に走った。
「ただいま!」
肩で息をしながら、騒々しくドアを開けたが、家の中に重く沈む静けさが、一瞬にしてすべてを飲み込んだ。あまりの静けさに、びっしょりかいた汗さえも、一瞬にして冷や汗に変わってしまう。
「伸行、帰ってきたよ」
不安な気持ちを押し殺し、できるだけ明るく声をかけると、奥からしんと伸行が現れた。半ズボンからはみ出た足の細いこと。その余りに頼りない風情に、千紗は胸が突かれた。
「ごめん、ちょっと遅くなった。氷の場所を探すのに手間取ってさ。それに、お祭り帰りの人が多くて、歩道が混んでいたんだ」
汗をぬぐいながら、忙しく台所に入って行く千紗を、亡霊のように伸行がついてくる。
「いない間、どうだった?」
「お母さん、ずっとあのまんま、寝てた」
「そう」
「でも、時々、ため息ついたりうなったりして、つらそう」
「わかった。すぐ氷枕作って持ってくから。それにおじいちゃんたちも、もうすぐ着くよ」
袋から飲み物を出しながら、千紗が言った。
「ねぇ、お姉ちゃん」
伸行が不吉な声をだした。
「あん? ちょっとそこどいて。冷蔵庫、開けられないから」
千紗は、意図的に言葉を遮ったのだが、伸行はその手に引っかからない。
「お母さん、入院とかなったら、俺たちどうなるの?」
「え?」
千紗は、氷の袋を手にしたまま、その場に固まってしまった。
不意を突くその質問は、恐らく伸行以上に千紗の心を打ちのめした。どさどさどさっという音がして、千紗の手から氷の袋が落ち、透き通ったクラッシュアイスがシンクに散らばった。
「あ」
千紗が慌てて氷を拾い、ゴム製の枕の中に入れる。伸行も一緒に氷を拾いながら、さらに言葉を続ける。
「なぁ、お母さん入院したら、どうなるんだろう。俺たちここにいられなくなるのかな」
「そそそ、そんなこと」
千紗は、慌てた。
「入院なんてしないよ。だって、だって、お母さん疲れて倒れただけなんだから。毎日こんなに暑いんだもの。そりゃ、お母さんだって疲れるよ。そういうのは、家でゆっくり休めば治るもんなの。あんた、大げさに心配しすぎ」
伸行のためというより、自分のためにこう言った。
「そんなこと、お姉ちゃんにどうしてわかんのさ」
千紗は心の中で舌打ちをする。全く最近の伸行は、本当に生意気でやりにくい。一々口答えして、理屈を言ってくる。
「あんな具合悪そうなお母さん、見たことないぞ。ただ事じゃないぞ。今回は」
「知らないよ、そんなこと。おばあちゃんが大丈夫だって言ってんだから、大丈夫なの。とにかく、氷枕を持ってく」
千紗は、伸行にそう言い捨てると、その場を逃げ出し、母の寝室に行った。
小さな灯り一つだけ点けられた薄暗い部屋に恐る恐る入って行くと、青白い顔で、母が静かに眠っていた。心持ち眉間にしわを寄せているように見える。確かに、今までこんなに弱々しい母を、見たことはなかった。冷たい手が千紗の心臓をつかむ。
「お母さん」
千紗はそっと呼びかけた。どうやら本当に眠っているらしい。千紗は手を伸ばして、そっと母の頭を持ち上げると、タオルで包んだ冷たい氷枕を滑り込ませた。そのままゆっくり母の頭を枕の上にのせる。母は身じろぎをしたが、目は開けなかった。
首も頭もとても熱い。まだ、かなり熱があるのだろう。千紗は、そっと部屋を出ながら、先ほど伸行が自分に投げかけてきた言葉を、反芻していた。
もし、お母さんが入院したら、あたしたち、どうなるんだろう。再び、不安が千紗の心に襲いかかる。もし、もし、もっとひどいことがお母さんに起こったら、一体あたしたちはどこへ行けばいいのだろう。
こんな時、お父さんがいたら、どんなによかっただろう。家族のことを心配して、会社からすっ飛んで帰ってきてくれる、お父さんがいたら。いや、この際どんなのでもいいから、お父さんという、もう一人の大人の親に、家に帰ってきてほしかった。
でも、自分たちにはもう、お父さんと呼べる人はいないのだ。あの人にはもう、新しい家族がいて、新しい家庭があるのだ。そしてそこには、自分たちの居場所はない。
千紗は急に泣きたくなった。目にじわっと涙が浮かんで、慌てて止めようと思ったが間に合わず、両の目からぽたぽたと流れ落ちた。
千紗は、たまらず自分の部屋に飛び込んだ。狭い部屋を八の字に歩きながら、一生懸命涙をせき止める。自分が泣いたりしたら、伸行はもっと怖がるだろう。それはいけない。あいつを必要以上に怖がらせてはいけない。
千紗は、ごしごしと涙をぬぐいながら思った。そうだ。あたしがしっかりしなきゃ。伸行はまだ小学生なのだ。あたしには、身長も体重も食べる量も勝てない、子供なのだ。
千紗は、気を取り直すと、腕を大きく広げて何回か深呼吸をした。それから、鏡をのぞいて泣いた顔をしていないかを確認した。何とか大丈夫そうだ。〆に自分の両頬をパチンとたたいて気合いを入れると部屋を出た。




