お母さんが倒れた! 1
ロングスカートの裾を蹴散らすようにして家に飛んで帰ると、千紗は母の寝室に飛び込んだ。母は、ベッドの中でやつれた顔で寝ていた。
「お母さん」
落ち着かねばと思のに、かすれた悲鳴のような声が出てしまった。
「お母さん、どうしたの? 吐いちゃったんだって。気持ち悪い?」
「千紗?」
母が、うっすらと目を開けて千紗を見た。
「吐き気は収まったみたい。ただ、今はひどく頭が痛いの。きっと暑さにやられたのね。でも、休めば大丈夫だから」
大丈夫という顔には見えなかった。母の顔色は青白く、ベッドに横たわる姿は、思った以上に厚みがなかった。お母さん痩せた・・・。千紗の胸に、大きな不安が襲いかかった。
「お姉ちゃん」
そのとき、後ろから弟の声が聞こえた。不安で一杯のか細い声だ。それを聞いた途端、鞭をくれた馬のように、千紗の気持ちがしゃんとした。しっかりしなくちゃ。あたしがおろおろしてどうする。
千紗は、大きく一つ深呼吸すると、ゆっくりと弟の方を向いた。
「とにかく熱を計るから、体温計持ってきて」
それから母に近づくと、耳元でそっと訪ねた。
「お母さん、寒い? それとも暑い?」
「さっきまで寒かったけど、今は暑いわ」
千紗は、ゆるめにクーラーをかけた。そこへ、伸行が体温計を持って戻ってきた。
「熱、計って」
母に体温計を渡した。体温計が鳴るまでのじりじりした時間が過ぎた後、母が力なく差し出した体温計に、子供二人がかじりついた。
「三十九度!」
どうしよう、どうしよう。千紗は取り乱しながら部屋を飛び出した。熱が高いのだから、まずは冷やさなくちゃ。
氷枕はどこにしまってあったろう。それから、それから・・・。そうだ、何か薬を飲んだ方がいいのじゃないだろうか。でも、何を飲んだらいいのだろう。千紗は、リビングで八の字を描きながら、熊のようにうろうろ歩いた。
「ねえ、お姉ちゃん、どうしよう。おじいちゃんちに電話する?」
弟がおろおろと言った。
「ああ、そうか、そうだね」
千紗は電話に飛びついた。そして、受話器を取りながら、
「あんたは氷枕を探して」
と、伸行に言った。震える指で、数字を押す。二度打ち間違えてから、やっと祖父母の家に電話がつながった。
「もしもし」
おっとりとした声が響いた。
「あ、おばあちゃん」
千紗は思わず、電話機を握りしめる。
「あら、千紗。こんな時間にどうしたの?」
「あのね、お母さんが、具合悪いって、吐いちゃったみたいなの。今は、頭が痛いって。熱も三十九度もあるの。ねぇ、どうしよう、救急車呼んだ方がいいの?」
「あら、まあ、それは大変。ちょっと待ってね」
電話の向こうで、祖父に向かって話しかける祖母の声が聞こえた。
「ねえ、あなた、洋子ったら吐たんですって。熱も三十九度あるらしいの」
「洋子が? そりゃ大変だ。すぐに行くって、子供たちに言ってあげなさい」
二人のやりとりを、藁にもすがる思いで、千紗は聞いている。
「千紗」
再び、祖母の声。
「お母さん、今はどう。まだ吐いたりしている?」
「ううん。吐き気は収まったって言ってる。でも、頭痛いって。でも、よくわからない。あたし、今夜、夏祭りに行ってたから。家にいたの、伸行だけだったの。伸行があたしを呼びに来て、それで、家に帰ったら、お母さん・・・。ね、おばあちゃん、どうしよう」
「大丈夫よ。落ち着いて、千紗」
祖母が明るく言った。
「いい、千紗、今から話すことを、良く聞いてね。まず、お番茶か、あればスポーツドリンク、なければお水で良いわ。とにかく飲み物を飲ませてほしいの。脱水になるといけないからね。次に、お母さんにいつも飲んでいる頭痛薬を飲んだか聞いてみて。もし飲んでいなかったら飲ませてあげて。それから、氷枕かアイスノンで頭を冷やしてあげて。わかった」
「うん、うん」
「おばあちゃんたち、そちらに行くわ。この電話を切ったら、すぐに家を出るわ。おじいちゃんと車でゆくから、そうね、四十分もあればそちらに着けると思う。それまで頑張れる」
「うん、頑張る」
目に涙がしみてきたが、千紗は気丈に答えた。
「まずは水分、それから薬ね、そして氷枕、この三つよ、千紗」
「うん」
「じゃ、おばあちゃんたちすぐに行くから、心配しないのよ。お母さんは、大丈夫だから」
「うんうん」
受話器を置きながら、目をごしごしと拭いた。泣いている暇などない。千紗は、グラスに、朝、母が沸かしていった麦茶を満たすと、再び寝室に行った。
「お母さん、ね、お母さん」
「ん?」
「お母さん、麦茶持ってきたから、飲んで。脱水になるといけないから。あと、何か薬飲んだ? 頭痛薬かなんか」
「頭痛薬を飲んだわ」
「あの、いつものやつ」
「そう。だからじきに効いてくると思うの。千紗、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「わかった。とにかく、水分。これ、麦茶飲んで」
「ね、千紗。水分なら、さっき薬飲むときに、多めに飲んだわ。だから、今は何もいらないわ」
「わかった。じゃ、麦茶はここにおいて行くね」
サイドテーブルに麦茶のグラスを置くと、千紗は、母の夏がけを少し直してから、部屋を出た。さあ、次は氷枕だ。
「伸行、見つかった?氷枕」
奥でがさがさやっていた伸行が、ゴム製の氷枕を手に現れた。
「あったよ」
「でかした。よし、これで氷枕が作れる」
千紗は台所に飛び込み、冷凍庫を開けた。
「なんじゃ、こりゃあ」
いつの間になくなったのか、冷凍庫には、ひとかけらの氷もなかった。
「どうするの、これ。これじゃ、氷枕、作れないよ」
伸行が叫んだ。実は、伸行は、お腹を壊しやすいので、余り氷を使わない。なので、この家で一番氷を消費しているのは、千紗なのだ。
「買いに行ってくる」
千紗は、玄関に向かって歩きながら言った。
「コンビニならあるはずだから。ついでに、スポーツドリンクとかも買ってくる」
「なら、一緒に行く」
「あんたは家で待ってて。おばあちゃんたちも来るし」
「でも・・・」
伸行は不安そうだ。具合の悪い母のもとに、たった一人で残されるのが恐いのだろう。千紗は、伸行を励ますように、言葉をかけた。
「あたしはすぐに帰ってくるから。全力でダッシュする。だからその間だけ、お母さんをお願い。ね」
「・・・わかった」
何とか頷いて見せた弟の顔を見届けると、千紗は、サンダルを突っかけて、家を飛び出した。




