わーい、夏祭り 1
机の上の時計がじりじりと鳴りだすと、千紗は、持っていた筆記用具を放り出し、問題集とノートを勢いよく閉じた。椅子に座ったまま、体を反らせて両腕をぐっと頭上に伸ばす。
時計を見れば、山田奈緒と約束している時間まで、あと三十分しかなかった。この三十分で、シャワーを浴びて髪の毛を整え、身支度を終えなくてはならない。つまり、ぼんやりしていられる時間は、一分たりともない。
千紗は、先ほどまで、半分居眠りしながら勉強していた人間とは思えないほどの機敏さで立ち上がると、風呂場に飛び込んだ。まずはシャワーを浴びなくては何も始まらない。盛大に泡をまき散らしながら髪と体を洗い、無事、シャワーを浴び終えると、今度は風量を最大にして扇風機に当たりながら、ドライヤーを使い始めた。髪を乾かさないことには、次の段階が始まらないのだから。
短パンランニング姿であぐらをかき、盛大にドライヤーを当てている千紗の横を、伸行が通りかかった。
「なんだよ、もう。ドライヤーと扇風機の両方使うなんて、姉ちゃん一人で電気使い過ぎなんだよ」
眉間にしわを寄せている。
「だってしょうがないでしょ。扇風機かけないと、汗びっしょりになっちゃって、またシャワー浴びなきゃならなくなっちゃうもん」
「け、気取っちゃってさ。たかが夏祭りじゃん」
「うるさいなあ。どうせ、あんただって、行くんでしょ」
「さあね。お前になんか教えねーよ」
「あ、そ」
お姉さまをお前呼ばわりする弟に、一発お見舞いしたい気持ちが起こらないでもなかったが、あえて自分を抑えた。今は、弟の挑発に乗る暇はないのだ。うっかり喧嘩でも始めた日には、また、シャワーを浴び直さなきゃならなくなるんだから。そう自分に言い聞かせ、千紗は、せっせと髪の毛を乾かすと、再び駆け足で自分の部屋に戻った。
髪をとかしながら窓の外を見上げると、西の空が赤く染まり始めている。千紗は思わず手を止めて、その光景に見とれた。夏は夕方からが最高に好きだ。
毎年行われる千紗の町の夏祭りは、駅前の商店街も参加するためか、なかなか盛大だ。神社から続く通りには様々な露店がずらりと並び、飽きることがない。しかしそう思っているのは子供だけで、千紗の母などは、人でごった返すばかりの通りを、二時間も三時間もただ行ったり来たりするのが、なぜそんなに楽しいのかわからない、と、呆れて笑う。だってもう、あなたたちだって、お面やはっかパイプに喜ぶ年でもないでしょ。
なぜなんだろうなあ。千紗にもうまく説明できない。説明できないけれど、わくわくしちゃうのだから仕方がない。というより、千紗からすれば、つまらないと言い切る母の気持ちこそ理解できない。夏祭りの夜に、祭り囃子の音を遠くに聞きながら家にいて、何が楽しいのだろう。こういう時、大人って何が楽しくて生きているのだろうかと、不思議になる。いや、少し気の毒になる。
千紗は、手早く髪の毛を結うと、袖口にレースがついた白いシャツと木綿のロングスカートを身に付けた。このスカートは、母が先週末に縫ってくれたばかりの新作だ。小さなスミレが一面に散った小花模様の木綿をたっぷりと使って作られたスカートは、くるぶしまでの長さがあり、ウエストの後ろで結ぶように薄紫のリボンが付いている。このスカートなら、浴衣姿のさやかにだって負けはしないはずだ。千紗は鏡の向こうの自分に向かって、大きく一回頷いて見せた。
知り合いの女子の中で、去年の夏祭りに浴衣で来ていたのは、半分くらいだったと記憶している。ごくごく幼いころに、金魚の模様の浴衣を着たきりの千紗にはよくわからないのだが、浴衣というものは案外蒸し暑いらしく、浴衣組はしきりに「暑い、暑い」を連呼しながら、商店街でもらった団扇で首のあたりをあおいでいた。
暑いし、なんだか窮屈そうだけれど、それらを我慢しても、夏祭りでしか見せられない、普段と違う自分になれる喜びに、浴衣組の瞳が輝いていたことを、千紗はよく覚えている。確かに、学校ではスポーツバッグを片肩に背負って、ガニ股で歩いているような沼田さなえでさえ、浴衣を着ると、何となく女の子らしいたたずまいを醸し出していたのだから、彼女たちの頑張りは、あながち無駄ではなかった。
しかしながら、浴衣着用率が何パーセントであろうと、それがいくら女子としての好感度アップにつながろうと、千紗は、大股で歩くこともままならない浴衣を着る気持ちにはならなかったし、浴衣を着ないことで、何らかの気おくれを感じることもなかった。あの夜、紺色の浴衣を可憐に着こなした、鮎川さやかが現れるまでは。




