夏休みは灰色 5
その時、後ろのドアがあいて、女の子たちが三人、にぎやかにしゃべりながら入ってきた。気後れしている千紗とは異なり、彼女たちはいかにも物慣れた様子で、広い教室の真ん中あたりに三人で並んで腰かけた。それを見て、千紗もおずおずと、彼女たちより少し後ろに位置する長机の一番端に、そっと腰を下ろした。
座ってみると、折りたたみ式のその椅子は、後ろの机にくっついていて、その机もがっちりと床に固定されているため、動きずらくて、何か拘束されているような感じだ。しかしそんなことをくよくよ考えているのは千紗くらいらしく、みんな物慣れた様子で着席し、教室はどんどん埋まってゆく。
千紗も気を取り直し、一人分の狭いスペースに、塾のテキストとノートを並べた。今は人もまばらだからいいけど、万が一これが全部埋まったら、かなり窮屈に思えた。でも、教室はずいぶん広いし、まさか全部は埋まらないだろう。しかし、その予想が甘かったことを、のちに千紗は思い知ることになる。
席にちんまりと収まった千紗は、まるっきり予習してこなかった新品のテキストを、何となくパラパラめくってみた。そして、パラパラめくっただけで、まだ授業が始まる前だというのに、なんだかげっそりしてしまった。たった一週間の割に分厚く内容がぎっしりのテキストと、無機質でやたらと寒い教室と、窮屈な机に、すっかり当てられてしまった感じだ。
千紗のやる気が早くも失せ始めている間にも、教室には人が増えてきて、どんどん席が埋まってゆく。千紗は何度か立ち上がり、自分の座る列の奥に座ろうとする人のために、場所をあけた。机と机の間が狭いので、いちいち立って椅子を折り畳まないと、奥の席には座れないのだ。
千紗は、立ち上がって場所を譲りながら、これだけ窮屈なんだから、お隣はぜひ小柄な女の子であってほしいと心底願った。そうでないとえらいことになる。しかしながら、
「隣り、いいっすか」
と千紗に声をかけてきたのは、百キロは体重があろうかという巨体の男子だった。
「あ? は、はい」
こんな大きな体が、入るのだろうか。平静を装いながら立ち上がると、その少年のために場所を空けた。彼は、その体格からしたら、いかにも薄っぺらな板でできた椅子を倒すと、机と椅子との限られた空間に太った体躯を押し込んだ。一枚板の椅子がぎしっと不穏な音を立てる。千紗は、その横に恐る恐る腰をかけた。
すぐに授業が始まった。如何にもベテランと言った感じの中年の男性教師が、マイクを片手に抑揚のついた声で問題の説明を始めた。しかし千紗は、どうも授業に身が入らない。先程までと違って、何だか座り心地が悪いのだ。
隣に座るデブ男の席は、その重さで沈むように傾いており、そのあおりを受けて、千紗の席は、急に座高が伸びたかのように、先ほどより高く上がってしまっているのだ。その斜めに浮いている感じが、なんとも不快で落ち着かないのだ。
気になることは、ほかにもある。どんなに千紗が身を縮めても、隣りのデブ男と体が触れてしまうのだ。これだけ冷房が効いている中、暑さのためなのか、ずっとふうふういいながら汗を拭いているデブ男の、汗で湿った肘がぶつかるたびに、千紗は手に持っているシャープペンシルを放り投げて、叫び出したい衝動に駆られた。
くそったれめ、これじゃ勉強にならないじゃないか。千紗は、募る苛々で、だんだん授業どころではなくなっている。せめてもノートくらいはしっかり取って、家で復習しようと思うのだが、これまたこいつが場所を余分に取るものだから、テキストとノートを観音開きにする空間がなかった。さらなる苛々と格闘しながら、それでも何とか工夫して、せめて板書だけはしっかりやったが、結局ろくすっぽ授業を聞くことができなかった。
その日の帰り、千紗は沈んだ顔で、電車に揺られていた。授業中、あのデブ野郎に苛々してばかりで、最後まで授業に身が入らなかった。あいつには恨みしかないが、しかし結局は、自分の苛々に自分が負けたのだ。
電車が千紗の町に近づくと、みんなが通っている塾の建物が見えた。みんな、あそこで勉強しているんだろうな。多分、菊池も。もしかしたら、鮎川さやかも一緒に。千紗は、しょんぼりと思った。
やっぱり少しお金がかかってもいいから、あっちの塾にしとけばよかったな。そしたらあたしも、もう少し真剣に勉強できたろうに。あの時、お母さんが『お金のことは気にしなくていいから』って言っていたの、素直に聞いておけばよかった。
しかし、新しい方の塾にしようと決めたのは、誰でもない自分なのだ。母の手伝いをしようと決めたのも自分。六時半起床で始まる夏休みのスケジュールを立てたのも自分だ。それなのに、何一つ、きちんとこなせてはいないではないか。
塾が始まれば少しはきりっとするかと思ったのに、なんだかちっともしゃっきりしない自分に、さすがの千紗も嫌気がさした。このままじゃだめだ。千紗は、改めて自分に誓いを立てる。ようし、明日からは絶対に、決めた通りきりっと暮らすぞ。
しかし、今日からと言わないところが、まだまだ修行が足りない千紗なのだった。




