夏休みは灰色 4
翌朝、少しもすっきりしない気持ちながら、とにかく千紗は、夏休み始まって以来の早起きをした。といっても、今日から夏期講習が始まるからなのだけれども。
支度をして階下に下りてゆくと、朝食を食べていた母と弟が「おっ」という顔をして千紗を見た。それがまた、癪に障る。ふんだ、言われなくたって、今日からきりっとするつもりでしたよぉだ。腹の中で毒づきながら、黙って自分用のパンをトースターに放り込んだ。
「二人とも今日から塾もあるんだし、お手伝いはしばらくいいからね」
千紗が、トーストを持って食卓に着くと母が言った。
「なんで? 買い物ならできるよ。塾の帰りに寄ればいいんだしさ。ねぇ」
千紗に促され、伸行も頷く。
「やれるよ、お母さん」
「でもね、お仕事、山を越えたから少し楽になるの。このところずっと忙しかったから、家に帰るのも遅くなっていたけれど、これからは早く帰れそうなのよ。だから、心配しないで。おかあさんは大丈夫だから」
母の声に少し頑ななものを感じ、千紗は黙って弟と目を見交わした。
「わかった。でも、なんか手伝えることあったらやるから言ってね」
「そうね、ありがと」
そうは言ったものの、母は、
「でもね、もう一度言っておくけど、この夏、あなたたちに一番しっかりやってもらいたいことは、勉強なの。だから、勉強に差し障るようなお手伝いだったら、やめてほしいの。それだけはお願い」
と付け加えた。
「それはわかったってば」
千紗はうんざりしながら言った。そして、そりきり黙ったままトーストを食べ終えると、使った食器を洗って、さっさと家を出ることにした。
電車で二駅のその学習塾は、駅にくっつくようにして建っている。今年、この街に進出してきたばかりの新しい塾で、真新しい建物も教室も、なかなか立派という噂だった。しかし、学校のクラスメートのほとんどは、昔からある町内の老舗の塾の方に行くのだろう。なぜなら、そちらの方がみんな通い慣れているし、第一、家から近いのだ。
本音を言えば、菊池も通うであろう老舗の塾の方に千紗も行きたかったが、国数英とか理社とか、セットでないと科目を取れないその塾だと、取る必要のない科目まで取らなくてはならず、無駄な費用がかかってしまうのだ。
いや、もちろん、この夏の千紗にはとって、勉強する必要のない科目なんて一つもないが、両親が離婚している上に弟も受験生という家庭の事情もあり、お金のかかる塾に助けてもらうのは、ほとんど崖っぷちまで追い込まれた社会と、強化を図りたい英語、この二教科に絞ることにしたのだ。
そうなると、断然、科目選択の自由がきくこの新しい塾の方が、千紗の望みに合っていた。それに全体の学生数が圧倒的に多いこちらの塾の方が、費用も安い。そういう訳で、千紗は、自分で夏期講習に新設の塾を選んだ。
さて、最寄りの駅に降り立った千紗は、目の前に聳え立つ塾と呼ぶにはあまりに立派なビルを、心もち気後れしながら見上げた。授業まではまだ時間があるせいか、一階のエントランスは人もまばらで、どこまでも広々と清潔な館内は、学習塾と言うよりオフィスという感じがした。
千紗は、事前に渡された資料を見ながら、三階にある指定された教室に向かった。部屋番号を何度も確認し、それからやっと扉を開けたというのに、千紗は一瞬、どこかの会社のオフィスに間違えて入ってしまったのではないか、という錯覚にとらわれた。
なぜならそこには、千紗がよく知っている塾の教室とは、あまりにもかけ離れた世界が広がっていたからだ。
千紗が知っている塾とは、つまり近所の老舗の塾のことだが、木造で少し古ぼけており、だから冬など建て付けの悪い窓の隙間から、隙間風が吹いて寒かったりもするけれど、教室を照らす明かりは暖かく、全体的にこじんまりと小さな教室なために、先生の目が隅々までとどいてしまう、そんな場所だ。しかしここはそれとはまるっきり違っていた。
まずは教室の広さだ。とても広いのだ。千紗の通う中学校の教室の四倍くらいはあるのではないだろうか。しかし、天井がそれほど高くはないので、広いのにもかかわらず、何となく圧迫感がある。いや、圧迫感の原因は、窓にもあるのかもしれない。
きっちりと計ったように規則正しく並ぶ窓は、部屋の片側だけしかなく、しかも擦りガラスなので外の景色が見えないのだ。そして、磨りガラスで遮断されるせいか、それとも元々日当たりが悪いせいなのかわからないが、外からの自然光というものが、室内にほとんど入っていない。
だから教室の明るさは、人工的な蛍光灯のそれなのだ。この蛍光灯の白い光の下に、六人掛けの長机が、定規で測ったかのようにきっちり、果てしなく並んでいる。千紗の背中から一気に汗がひいたのは、キンキンに効いた冷房の涼しさだけではあるまい。




