夏休みは灰色 2
夏休みが始まって最初の週末が来た。母の仕事も今日と明日は休みだ。それを思うと、千紗はちょっとほっとする。朝はなるべくゆっくり寝かせてあげようと、忍び足で階下に下り、ダイニングに行くと、伸行が朝食を食べていた。
「なんだ、休みの日なのに早いじゃん」
千紗が声をかけると、バタートーストにかぶりつきながら、
「もし」
と一言。
「は? なんだって」
「だから、もし」
「もし? もしってなんだよ。電話のあれか?って、それは『もしもし』だろう」
お姉さまが、休日の朝からボケて差し上げたというのに、伸行は笑うどころか心底千紗を馬鹿にしたような顔で、フンと鼻を鳴らした。
「模擬試験だよ」
「ああ、模試か。何だよ、それだったら最初から模擬試験って言えばいいだろうが」
「模試で伝わると思ったの、一応、そっちも受験生だから」
一々、気に障るものの言い方をする奴だ。体の中で、怒りのマグマがふくれ上がっていたが、蒸し蒸しする夏の朝から喧嘩をするのが面倒だったのと、せっかく眠っている母を起こしたくなかったから、あえて自分を抑えた。それでも、何もしないというのも芸がないので、伸行の残りのトーストを素早く奪って口に押し込むと、「この泥棒野郎!」と怒鳴る弟の声をさらっと聞き流しながら、台所へ退散した。
最近のあいつは、いつも苛々していて、本当に嫌だ。千紗は、口いっぱいのパンを咀嚼しながら思った。でも、このトーストはなかなか美味しいな。あたしも今朝は、トーストにしようっと。千紗は、手早くトースターにパンを2枚放り込むと、冷蔵庫から卵を取り出した。
卵をかき混ぜながらふと気がついて、ダイニングに向かって声をかけた。
「ねえ、考えてみたら、今日の掃除・買い物当番ってあんたじゃなかったっけ」
「あ、俺、今日無理。模試だから」
「何それ。じゃ、今日、帰ってきてやればいいじゃん」
それには答えず、まっすぐ前を向いてパンを齧り続ける弟の態度にかちんと来た千紗は、つかつかと食卓に行くと、おでこがぶつかるほどの距離で、弟を睨みつけた。
「え、どうなんだよ、黙ってないで返事しろ」
限界ギリギリの低音で凄んだ。
「そっちこそ、どうなんだよ」
少しも怯むことなく、伸行が上目遣いでにらみ返してきた。
「掃除、サボりまくってんだろ。それはどうなんだよ」
千紗はギョッとなって、思わず後ろに退いた。なんでバレたんだろう。まさか伸行の奴、どっかで隠れて見ていたんじゃないだろうな。
「ちち、ちゃんとやった日もあるぞ。それに、買い物はちゃんとやったし」
「やっぱり、さぼってたんじゃねぇか」
「なに、お前、あたしに鎌かけたな」
「鎌なんかかけなくっても、わかっていました。朝食に食べたパン屑が夜になってもあったんです、床にいっぱい。それをお母さんが、雑巾で拭いてたんです。だから、お母さんも知ってるんです」
口を横に広げるようにして、一音一音はっきりと発音する弟の、なんと憎らしいことだろう。千紗は、怒りのあまり身を震わせながら、自分の弟を睨みつけた。そして、テーブルのパンくずは手で払っていたが、床に落ちていたことまで考えていなかったことを、今更ながら悔んだ。あの時どうして、集めてちゃんとゴミ箱に入れなかったのだろう。
「だだ、だけど、あんただってサボった日もあるでしょ。買い物はほとんどあたしがやってたし」
「だって、塾や勉強で忙しい時は、無理に買い物はしなくていいって、お母さんが言ったじゃん。それに、姉ちゃんは自分が買い食いしたいから、ついでに買い物もやったんだろう」
「そ、それは違うぞ、断じて違うぞ。むしろ逆だぞ。それに今は掃除の話をしてんだ」
「だから?」
伸行は、ほとんど罪人を見るような眼で、千紗を見た。
「そっちはほとんどやってないって話に変わりないじゃん。だから、今日、姉ちゃんが掃除と買い物をやるのは、当然って訳。文句があんなら、お母さんに言えよな」
それだけ言い終えると、怒りに震えるばかりで、何一つ言い返すことのできない千紗の前で悠々と身支度を済ませ、千紗の前をすり抜けてさっさと出かけてしまった。
「なんで、なんで、なんで、なんで・・・」
一人、リビングに残された千紗は、八の字に歩きながらつぶやいた。なんでこうなるんだ。なんでだ。なんでだ。なんでだ。




