面会は面倒 その3
さて、遅れに遅れたバスが、やっとの事でバス停に現れた時、千紗も伸行もいい加減びしょ濡れだった。さらにうんざりすることには、せっかく乗り込んだバスの中も、千紗たちみたいに、雨の中で散々待たされたびしょ濡れの人たちで一杯だった。
それみろ、と伸行は千紗を振り返ったが、吊革もない場所で仁王立ちする千紗には、伸行の顔など見る余裕はない。バスが、右に左にカーブするたびに、びしょびしょの傘が二人を襲い、二人の傘も周りの人たちを濡らし、駅に着くころには、乗客全員が、乗車前よりさらに濡れてしまったような気持ちになった。
ほうほうの体でバスを降りる。約束の時間を二〇分も過ぎているのを気にした伸行が、駅の中に駈けてゆく。が、千紗は、その後ろを一緒になって走って行く気持ちになれない。想像の向こうに、遠く小さく存在するに過ぎなかった父との対面が、急に現実のものとなり、千紗はうろたえ、怖いような気持ちになっていた。
一体、どんな顔して会えばいいのだろう。あの人に対して、どんな態度をとれば正解なのだろう。そもそも、あの人のことを、なんて呼んだらいいのか分からない。なるべくゆっくり歩きながら、千紗は必死に考える。今のうちにしっかりと自分の方針を決めておきたい。そうしないと、場の空気に流されて、最悪なことにもなりかねないではないか。それなのにどんどん頭が混乱してきて、考えがまとまらない。それどころか、考えるってこと自体ができなくなっている。
嫌だ、と、千紗は思った。こんな状態で、会いたくはない。こんなまとまらない気持ちのままで、あの人に会うのが怖い。千紗は思わずその場に立ちすくむ。
「姉ちゃん、何してんだよ。こっちこっち」
先に行っていた伸行が、焦れたように千紗のところに戻ってきた。
「なに、ちんたら歩いてんだよ。もうお父さん来てるよ」
「そんなに急がなくたって、大丈夫だって」
伸行は、ぐずぐずと言う千紗の腕をつかむと、ずんずん駅の中を進んでゆく。
「ちょ、ちょっと待ってよ。雨で床が滑るんだから、そんなに引っ張らないでったら」
弟に引きずられながら、千紗は、どこに視線をやったらいいのかわからない。右に左に、すれ違う人波にぶつかりそうになりながら、やっと歩く。もつれる足取りは、千紗の頭の中、そのものだ。できればここから逃げ出したい。今朝、這い出てきたベッドに、もう一度潜り込みたい。千紗は、伸行に腕を引っ張られたまま、思わずギュッと目を閉じた。
「遅れてごめん。お父さん、待った?」
その時、伸行の声が聞こえた。伸行にぶつかるようにして、千紗も立ち止まる。
「いや。それより、こんな雨の中、大変だったろう。二人とも、バスで来たのか?」
そう答える声は、聞き慣れた、千紗がよく知っている声だ。
「うん」
「混でただろう」
「もうゲロ混み」
恐る恐る顔をあげると、目の前に父親が立っていた。太りも痩せもせず、でも、少し白髪が見えた。あれ、お父さんに白髪なんて生えていたっけ?
「やっと来てくれたね、千紗」
千紗の目をじっと見つめながら、父が言った。
「どもども」
その父の視線から逃れるように、手をひらひらさせて、顔を背けた。
正直にいえば、自分としては来たくはなかったが、母親の思いや、伸行に姉ちゃんだけ逃げてずるいと言われたことなど、もろもろの事情もあり、仕方なく、本当に仕方なく、引きずられるようにしてやってきたのだ、と説明したかったが、口がこわばって、それだけ言うのが精いっぱいだった。
「やっぱりあれかい、のぶに無理やり引っ張られてきたか」
そんな千紗の内心を見抜いたかのように、父親が言った。
「そうだよ。そのせいで、俺なんか姉ちゃんに顔引っかかれて、ひどい目にあったんだから」
「そうかそうか。のぶ、ありがとうな」
そういって、父は伸行の頭をくしゃくしゃとなでた。
そのやり取りをぼんやり見ながら、そう言えば、伸行が『のぶ』と呼ばれるのを久しぶりに聞いたな、と、千紗は思った。今、家では誰も伸行のことを『のぶ』なんて呼ばない。母は、『伸行』か『のぶちゃん』だし、千紗に至っては、よくて『あんた』で、大抵は『お前』か『てめえ』だ。
「でもな、お父さんは、千紗に会えてうれしいよ」
むっつりと黙っている千紗に、父は笑って言った。そう言われてむくれるわけにもいかず、千紗は仕方なく、歯をむき出すようにして、無理やりにかっと笑い返した。年頃の娘としてはかなりいけてない笑顔ではあったが、今の千紗の精いっぱいだ。




