面会は面倒 その2
翌朝。千紗は、雨の音で目を覚ました。七月にしては薄暗い朝。風も強い。どうやら中途半端な形で、千紗の願いが叶えられてしまったらしい。
こんな日に出かけるなんて嫌だなぁ、電車止まらないかなぁ、そう思いながらも、なんとか起きだしてダイニングに下りて行く。
「あら千紗。おはよう。今、起こそうかと思っていたところよ」
母が、ティーポットにお湯を注ぐと、あたりに紅茶のよい香りがふわりと漂った。
「パンは、トースターの中。あなた、卵かソーセージ、食べる?」
「う~ん、いらない。パンだけでいい。あ、バナナはある?」
「あるわよ」
「じゃあ、バナナトーストを作ろっかな」
千紗は台所に入ると、冷蔵庫からバターを取り出し、バナナをスライスすると、手際よくトーストにバターを塗って、その上にバナナを並べた。
「蜂蜜、蜂蜜」
千紗は、棚から蜂蜜を取り出すと、最後にきれいに振りかけた。
「う~ん、良い出来」
千紗は、バナナトーストを皿に盛り、ダイニングに持って行った。
意外なことに、と言っては何であるが、千紗は料理が好きだ。それは多分に食いしん坊だから、なのだけれど、何でも器用に作り、けっこう美味しい。しかしながら、盛り付けのセンスがあまりない。味をつけるまではあんなに細心の注意を払うのに、盛り付ける段になると、一刻も早く食べたいと言う気持ちが全面にでてしまうのか、もともと大雑把でセンスがないのか、残念な感じになってしまう。
そのせいか、
「お姉ちゃん、これ、不味いかもと思ったけど、食べてみたら意外とうまい」
という伸行の失言を、引き出すことになる。そんな千紗からしたら、今朝のバナナトーストは、完成度が高い方だ。
千紗が食卓について、紅茶をカップに注いでいると、伸行が、もさもさとダイニングにやってきた。昨日も遅くまで勉強をしていたらしく、髪は寝癖で盛り上がり、顔色もいいとは言えなかった。
「おはよう」
千紗の声に頷くが、まだ目が半分閉じたままだ。こんなに勉強を頑張って、体が持つんだろうかと、ふと心配になる千紗だ。
「のぶちゃん、おはよう。パンはトースターに入っているから、自分で温めなさいね。あと、卵かソーセージ、食べる?」
よれよれの弟を上から下まで見ながら、母が言った。母も千紗と同じ事を思ったのだろう。
「お母さん、作ってあげるから」
と、甘やかすように言った。
伸行は、やっと開いてきた目でテーブルを見ると、
「あっ、なにそれ。お姉ちゃんのうまそう」
と叫んだ。
「姉ちゃんのバナナのパンが食べたい」
と、伸行。思わずにやりとしてしまう千紗だ。そうだろう、そうだろう。お姉ちゃんのトーストは、美味しそうだろう。
「じゃあ、のぶちゃんも、バナナトーストにしましょう」
伸行は、わ~いと両手を挙げ、母の後ろについて台所に入っていった。そして、しばらくすると、伸行も同じように、バナナののったトーストを持って、テーブルに着いた。
「ふっふっふ」
伸行は、千紗を横目で見ながら、不敵に笑う。
「お姉ちゃん、見てよ。俺のやつ、バナナの下にピーナッツクリームを塗ったんだ」
「え、うそ」
「いいだろ」
「ちょっとお姉ちゃんに頂戴。お姉ちゃんのもあげるから」
「嫌だよ」
「そんなこと言わないで。さあ、ね」
千紗は素早く立ち上がると、ナイフを手に、弟の抗議を軽くいなしながら、自分と弟のトーストを四等分してしまった。
「ね、4分の1ずつ交換こしよ。はーい。これ、お姉ちゃんのをあげるから。こっちも美味しいぞ」
「しょうがないなぁ」
嵐の前の静けさ? 微妙なバランスを保ちながら、それでも二人は、喧嘩することなく機嫌よく朝食を食べ終えた。
部屋に戻ると、千紗は考え込んだ。さて、何を着てゆこう。サンダルを履きたいところだけれど、外はあいにくの雨だ。それに、おしゃれして会いに行く相手でもない。そこで千紗は、なるべく普段着らしい恰好をすることにした。
デニムのハーフパンツにワンポイントの入った半袖のTシャツを着て、鏡の前に立つ。小さな鏡なので、全身を映すのは難しいけれど、想像で補って判断する。つまらない。千紗は、ハーフパンツを脱ぐと、この間、祖母に買ってもらった夏のスカートに着替える。う~ん、このスカートだと、上はあの時一緒に買ってもらった半袖のブラウスの方が断然いいはずだ。今度はTシャツを脱いでブラウスを着る。しかし、鏡をちらと見ると、すぐにどちらも脱ぎ捨てた。うきうきおしゃれをして行く場所じゃない。
その後も、ああでもないこうでもないとさんざん悩んで、結局、ブルージーンズと最初に着たワンポイントの付いたTシャツで手を打つことに決めた。時計を見ると、もう、出かける時間だ。しかし、千紗はまだ鏡の前でグズグズしていた。
髪の毛をどうしよう。お洒落な髪型も、お洒落でない髪型も、どっちも不正解に思える。これまた数分悩んで、蒸し暑い日になりそうなだから、ポニーテールにすることにした。伸びてきた髪の毛を、手早くポニーテールに結いあげる。ま、これでいいだろう。小さく頷くと、千紗はやっと鏡の前を離れた。
仕度のすんだ千紗が、お財布とハンカチの入ったポシェットを片手に下りてゆくと、心配そうな顔の母に出くわした。
「ああ、千紗。もうそろそろ、家を出た方がいい時間よ」
「うん。わかっているよ」
千紗は、落ち着いた声で言った。腹はくくったつもりだ。
「その髪型、すっきりしていいじゃない」
母は、日に日に少女らしくなってゆく娘を、少し眩しく眺めている。
「あ、そうだ。どうせなら、リボンを結んだら。確か、ギンガムチェックのリボンがあったはずよ」
「そんなのいいよ」
千紗の言葉が聞こえなかったかのように、母はすばやく身を翻すと、寝室に駆け込んでいった。しばらく、化粧台の引き出しをがさがさやったあと、紺のギンガムチェックのリボンを手に戻ってきた。
「ほら、ちょっとかがんで」
いいって言ってるのに、と、遠慮がちに抵抗する千紗を無視して、母は、あっという間に、千紗のポニーテールにリボンを結んでしまった。
「ほら、ね」
母が勝ち誇ったように言った。
「とっても良く似合うじゃないの」
「でもさぁ、そんな気分じゃないんだけどなぁ」
「そんなこと言わないで、ね」
そこに、トイレから出てきた伸行が現れた。
「のぶちゃん、どお? お姉ちゃん、リボン似合うでしょ」
「け、変なの」
相変わらず、憎らしい。
「なんだ、お前。ちゃんと正直に、お姉さまはかわいいと言いさらせ!」
伸行の態度になぜか少し心が軽くなった千紗は、その日初めて威勢のよい声が出た。
「あ~あ、雨か。嫌だなぁ」
玄関で靴を履きながら、千紗がぼやいた。
「駅までは、バスで行っていいから」
母が、甘やかすように言うと、たちまち伸行が反対意見を唱える。
「だめだよ。雨の日って、バスの時間がめちゃめちゃになるんだ。それに、もう時間ぎりぎりだから、歩いて行った方が確実だよ」
「別に遅れたっていいじゃーん。バスで行こうよ。バスにしてくれないと、お姉ちゃん、行かないぞ」
千紗がごねると、伸行はしょうがねえなと小さく舌打ちをし、
「バスも待つことになるからな。そん時になって文句言うなよな」
と、千紗を睨んだ。
「まあ、伸行君ステキ。男前」
弟に睨みつけられたって、蚊に刺されたほども感じない千紗だ。
「姉ちゃんにそれ言われると、なんかすごくむかつく」
「わあ、よかった、むかついてくれて」
「け、怪力ゴリラのくせに」
「あん? もう一度言ってみ」
「わぁ、こわーい。じゃ、行って来ます」
「行って来ます」
ああだこうだと言い合いながらも、雨の中、傘をさして出かけた二人を見送った後、母は、ダイニングの椅子に腰をかけ、ふうっと大きくため息をついた。今日一日、何とか喧嘩しないでいてくれるといいのだけれど。ま、そんなこと、くよくよ気にしても始まらないか。そう思い直すと、自分一人のためにコーヒーを入れようと、台所に入っていった。




