「君、雨は好きかい?」
雨の中、ぼくは走っていた。頭のてっぺんにどれだけ雨が降り注ごうが、水たまりに突っ込んで靴がびしょ濡れになろうが、お構いなしだ。傘の無い今、いち早く家に帰るのが優先なのであって、立ち止まったり、駆足のスピードを緩める方が、かえって被害を大きくしてしまう。
これも全部、伊藤さんのせいだ。あのいい子ぶりたい真面目な委員長が、些細なことで学級委員会を引き延ばし、下校時間を十分ばかり遅らせてしまった。下校のチャイムが鳴った時、確かに曇りだったけど、雨はまだ降っていなかった。ちゃんと三時半に帰れていれば、こんなどしゃ降りにぶち当たることも無かったのに。
雨宿りできそうな場所はない。見渡す限り田んぼしかなく、建物など一つもない。平たい田んぼ道をぼくは走っていた。
ぼくは道を逸れて、山沿いの車道に入った。隣はうっそうとした雑木林で、葉や枝から大粒のしずくが滴り落ちている。
電線の下を、ぼくは走る。先の景色は霧に包まれていてよく見えなかった。前も後ろも等間隔に電柱が並び、同じ光景がずっと続く。なんだか同じ場所をループしているかのような錯覚に囚われそうになる。それでも、ぼくは走り続けた。
向こうにトタンの小屋が見えてきた。それは電柱のそばに設えられたバス停だった。ぼくは急いで屋根の下に駆け込んだ。木のベンチに座り、顔から滴り落ちる雨と汗が混じった液体を拭った。
バチバチバチ――。
トタンの屋根を雨粒が打つ音が響く。それ以外には何も聞こえない。
ぼくは疲労でくたくたになった足を休めながら、ずぶ濡れになったランドセルをハンカチで拭く。この分だと、中の宿題のプリントや教科書が湿気を吸ってしわしわになっているかもしれない。思わず、ぼくはため息をついた。
「君、雨は好きかい?」
隣のベンチに、お姉さんが座っていた。たぶん、高校生だろう。ぼくと同じように雨を逃れ、ここに行きついたらしい。お姉さんもぐっしょり濡れていた。
「たぶん……あんまり好きじゃないです。外で遊べなくなるし」
「そーかそーか。まあ、そうだろうねぇ。かく言う私も、実はあんまり好きじゃないんだ」
お姉さんは足を組みながら、濡れた黒髪にハンカチを押し当てて水気を取っていた。どこにでもいる普通の女の人だったけど、雨に濡れているせいか、この時はなんだかとても綺麗に見えた。
「君はどこの学校の子?近くなの?」
「ええ、まあ……。ここから十分ほどのところにある……」
「ああ、あそこね。私もそこなんだ。じゃあ、君は後輩か」
お姉さんは細い目をもっと細くして、ぼくのことを見た。ぼくはちょっとだけドキッとした。年上の女の人に、こんなにまじまじと見られたことは今までなかった。
「ねぇ、最近の小学生ってのはどうなの?」
「どうって言われても……普通ですよ」
「つまんないなぁ。もっとこう……私にショックを与えてるくれるような話はないのかい?『今の子はそんなことを考えているのかー』って驚きたいんだよ、こっちは」
「ええ……」
「そうだ。将来の夢。やっぱり今の子はネットで有名になりたいとか、そういう夢を思い描くのかな?インフルエンサーとかユーチューバーとか、色々あるでしょ?」
「いやぁ……。みんな普通ですよ。サッカー選手とか、ケーキ屋さんとか」
「なぁんだ、私の頃と変わらないじゃないか」
お姉さんはがっかりしてため息をついた。
「お姉さんはどうなんですか?」
「私?私が君くらいの時はねぇ……大統領かな。アメリカの」
「だ、大統領!?そんなの無理ですよ!日本人じゃないですか!」
「小学生なんだから別にいいじゃないか。君もそれくらいの野望は持たないとダメだぞ?普通の夢なんて論外だからね?小さい時くらい、でかい夢をぶち上げなきゃ。大統領が嫌なら、世界征服でもいいんだよ?いや、宇宙人と友達になるとか……」
「そんなこと、今時の幼稚園生でも考えないですよ」
「はぁ~あ……。今の子は現実的で夢がないねぇ?悪い意味でショックだよ」
勝手に期待されて勝手に失望されてしまった。お姉さんはぼくにどんな夢を語って欲しかったのだろうか?
「……」
会話は途切れて、雨の音だけが沈黙を満たす。雨はまだやみそうにない。
「君も乗るの?」
「え?何にですか?」
「バスだよ、バス。ここはバス停だよ?乗るって言ったらバスに決まってるじゃないか」
「いや、ちょっとした雨宿りです。ここから家も近いので、雨が弱まったら歩いて帰ります」
「ふぅん。じゃあ、一緒には行けないね。残念」
再び沈黙。雨脚は弱まるどころか、強くなる一方だった。風のない湿った空気の中を、ただひたすらに雨が降り注いでいる。
「君はもう恋愛はしたかい?」
「し、しないですよ……。ぼく、まだ小学生だし」
「恋愛に年齢は関係ないさ。好きな子くらい、いるだろう?」
「まあ……多少は」
「ぷっ。なんだい”多少は”って」
お姉さんは立ち上がり、僕の隣にいきなり座って来た。僕はランドセルを抱えて、小さく縮こまる。
「なんですか、いきなり……」
「ん~?この手の話は大きな声だと話しにくいだろう?だから、こうやってそばに来てやったのさ」
「ぼくとお姉さん以外、誰もいないじゃないですか」
「好きな子の話なんて、顔を突き合わせて正々堂々とするもんじゃないでしょ?周りに人がいるかどうかなんて関係ないのさ。ヒソヒソ話でやらなきゃね」
ぼくはお姉さんの存在を近くに感じて、思わず顔を赤くしてしまった。でも、こんなに近くにいるのに、お姉さんの体温を何も感じなかった。お互いに雨で冷えているせいだろうか?
「で、どんな子?可愛いの?デートはもうした?」
「話さなきゃダメですか?」
「もちろん。人生の先輩として、適格にアドバイスしてあげるからさ。そんなに恥ずかしがるなって。私と君は赤の他人。たぶん、もう二度と会うことはないだろうし、だからこそ恥ずかしい話もできるものさ。ね?全部話しちゃえ」
「わ、わかりましたよぅ……」
そこで、ぼくはお姉さんに好きな子について話してみた。ぼくの好きな子は隣の家に住んでいる幼馴染で、大きなリボンがトレードマークの可愛いらしい子だった。でも、クラス替えで別のクラスになってからあんまり話してなくて、そしてたぶん、その子には別の好きな子がいるらしい。
「……つまり、三角関係ってこと?」
「まあ、そういうことになりますね」
「今時の小学生は色々とフクザツだねぇ。将来の夢よりこっちの方を先に聞けばよかったよ。これはいい話を聞いた。お姉さん的には満足かな」
お姉さんはぼくの話を気に入ったらしい。にやにや笑っている。
「……よし、花をプレゼントしよう」
「花ですか?」
「愛を伝えるのには花が一番さ。な?いいだろう?」
「なんか古臭くありません?今時、花のプレゼントなんて……」
「ちょ……!私がおばさん臭いって言いたいのかい!?君は!?」
「そこまでは言ってませんよ。でも、なんかありきたりだし、普通かなぁって」
「なんだかんだ言って、やっぱり王道が一番なのさ。奇をてらうのは未熟者がやることだよ」
「でも、さっきは普通はダメって言ってませんでした?」
「それは言わない約束さ。よっと……」
お姉さんはベンチから立ち、腕時計を見た。雨の勢いは相変わらずだが、ほんの少しだけ霧が薄くなったような気がする。
「ま、思いは伝えられる内に伝えるのがいいよ。できなくなってからじゃ遅いからさ」
「それも年上のアドバイスってことですか?」
「そうそう。物分かりがいいね、君」
ぼくとお姉さんは顔を見合わせて笑った。
「わかりました。まあ、やってみます」
「君の幸運を祈るよ。さて、そろそろかな?」
霧の向こう側に、二つの黄色い点が現れた。それはバスのライトだった。バスが霧を追い払いつつやってくる。名前の知らないお姉さんとのお別れの時だった。
「あの……お姉さんの好きな花はなんですか?」
「アジサイだけど……。そういえば、今がちょうど咲くころだね。でも、なんで?」
「次、会った時に渡します。今日のお礼に」
「あはは。その歳で二股するなんて、ひどい小学生だねぇ。でも、ありがと」
バスは停車し、ドアが開く。乗車するのはお姉さんただ一人。ぼくはベンチに座って、お姉さんの後ろ姿を眺めている。
なぜかわからないけど、ぼくは変な胸騒ぎを覚えた。もう二度とお姉さんと会えなくなるのではないかという予感が走った。そんなわけはない。また明日、同じ時刻にこのバス停に来ればまた会えるのだ。
でもやっぱり、ぼくは居ても立っても居られなくなって、お姉さんに声をかけた。
「あの……このバス、どこに行くんですか?」
「東の方かな」
ぼくの家の方角と同じだった。確かポケットに小銭がいくらか入っていたはずだ。運賃は払えると思う。一区間か、二区間くらいは乗れるかもしれない。ぼくはお姉さんとまだお喋りしていたかった。まだ別れたくなかった。
ぼくはバスに乗ろうとした。でも、お姉さんはぼくを止めた。
「乗らなくてもいいよ。元々乗るつもりじゃなかったんだろう?」
「え、でも……」
「ゆっくり行きなよ。急がず焦らず、自分のペースで行きなさい。君がこのバスに乗るにはまだ早すぎるってことさ。これもお姉さんからのアドバイスだよ。まあ、代わりと言ってはなんだけど、これをあげる」
そう言って、お姉さんは鞄から赤い折りたたみ傘を取り出して、ぼくに渡した。
あれ?おかしいな。傘を持っていたなら、どうしてお姉さんはぼくみたいに濡れていたんだろう?
「帰りはそれをさしていけばいいさ。それじゃあ、さよなら」
「あっ……」
扉が締まり、お姉さんはバスに乗ってどこかへ行ってしまった。お姉さんの存在も、バスの姿も、すぐに霧に包まれて消えてなくなってしまった。
ぼくはなんだか心が空っぽになってしまって、バス停で棒立ちしていた。雨はいつまでもやまず、ぼくの上に降り注いでいた。
次の日も雨だった。ぼくは昨日と同じように田んぼ道を走り、そして途中から山沿いの道に入った。お姉さんからもらった赤い傘をさして、ぼくは駆けた。
ぼくはお姉さんにまた会いたかった。他愛のない話をしたかった。昨日の話の続きをしたかった。ぼくはもしかしたらお姉さんのことを好きになってしまったかもしれない。
だから、ぼくはこのアジサイの花を渡すつもりだった。学校の庭に生えていたものを、こっそりもらってきたのだ。
雨は降っていたけれど、昨日のような霧はなく、遠くまで見渡すことができた。ぼくはあのバス停を早く見つけたくて、なるべく遠くに視線を送った。
でも、バス停はどこにもなかった。
本来、バス停があるはずだった場所には電柱が一本ぽつんと立っていて、その根元に花束が一つ、添えられていた。
お姉さんが好きだと言った、あのアジサイの花束が――。