87 パンバスケット
かつてのこの教会のキッチンは、かび臭い古びた石造りの暗い場所だった。
しかし新しいキッチンは掃除された後に壁は漆喰で白く塗り固められ、ところどころにかわいらしいパステルカラーのタイルが貼られてまるで別の場所のように変身している。
広くなった窓のおかげでキッチンも明るくなり、調理中も充分な換気ができそうだ。
「アネモネ様は料理をされないとのことですが、せっかくきれいになったキッチンも使わずにいるとまたかび臭くなってしまいますわ。そうですわね……ジギタリス様、作り方をお教えするので覚えていただけます?難しい料理ではございませんので」
「いいよ、僕もいつでも美味しい物を食べられた方がいいしね。あと僕と君は魔王の臣下同士だし、敬称はいらないよ」
「うちもうちも。ベラドンナって呼んでねぇ」
指示されるがままエプロンをつけて手を洗ったジギタリスは、髪が長いと不衛生だから結ぶように言われると、素直に後ろ髪を結って長い前髪をピンで止めた。
これで彼の前髪に隠されていた素顔が拝めるのかと、少し期待しながら横目で顔を覗いたのだが。
いつの間にかゴーグルのようなものが装着されていたので、ジギタリスの素顔を見ることは叶わなかった。
ダチュラがバスケットから取り出したのは、バゲット、ガラス容器に入れられたカット野菜やベーコンなどの燻製肉、細かく切ったチーズ、白ワイン、コーンスターチ。
普段は食パンをスライスしてサンドイッチを作ることが多いが、今日はバゲットで作るのだろうか。
しかしそれだと、チーズがスライスではなく細かく刻まれていることやコーンスターチを持ってきた意味がわからない。
興味深く手順を見守っていると、ダチュラがチーズにコーンスターチを満遍なくまぶした後に鍋でにんにくを熱して潰し、白ワインを加えて一煮立ちさせてアルコールを飛ばした後、チーズを入れてヘラでよく混ぜてゆく。
さぁここからどう料理してゆくのかと思ったら、ダチュラが徐に火を止めた。
「出来上がりですわ」
「えっもう?料理とかだるいと思ってたけど、うちにも作れそうじゃん!」
「料理と呼んでいいのかもわからない代物だね。何ていう名前の料理なの?」
戸惑いと驚きでざわめく私たちを見て、ダチュラは白い液体の入った鍋を掲げて得意げに笑う。
「これはチーズフォンデュ、という料理ですわ」
ジギタリスがもうひとつの鍋にも同じものを作った後、皆で食材を持って食堂へ移動して昼食の時間となった。
チーズフォンデュというのは卓上焜炉で保温されたチーズに、好きな具材をディップして食べる料理らしい。
なるほど、これならその時手に入った野菜や肉で作れるし手順も簡単なので、料理が得意でないアネモネたちにはうってつけかもしれない。
試しに分厚く切られたベーコンをディップして口へ運ぶと、熱々のチーズでベーコンの脂が僅かに溶けて何とも言えない美味しさだった。
今は秋なので野菜はきのこや根菜が多めだが、冬になればカリフラワーや蕪なども合いそうだ。季節によって食べるのが楽しみになりそうな料理である。
それに今は日が高いが、晩餐として出せばワインを一緒に飲んでも楽しめそうだ。そう思っていると、ジギタリスが見覚えのある瓶をグラスに注いでいるのが目に入った。
「ちょっと、ジギタリスそれさっき使ってた白ワインじゃないの。あたしの教会にある酒を勝手に拝借するんじゃないわよ!」
「固いこと言わないでよ、これ食べてお酒飲まないとかありえないでしょ。あ、アネモネも飲む?」
「飲まないわよ!」
「うちは飲むからちょうだい、ジギタリス」
自由奔放な臣下たちに振り回されているアネモネを見て微笑ましく思っていると、隣にいるコリウスが、目を輝かせながら私の袖を引っ張ってくる。
「ママ、僕これならお野菜食べられるよ……!」
魔族になったことで健康被害が起きないのならば嫌いな野菜を食べる必要はないと、コリウスに野菜を食べることを今まで強要はしなかった。
しかし野菜の美味しさを知らないのはもったいないことだと思っていたので、コリウスが野菜を美味しく食べることができたのならばそれは喜ばしいことだ。
「それなら帰ったら料理長に、今後はコリウスの分の前菜はサラダではなくチーズフォンデュにしてもらえるか頼んでもらえるかしら」
「小鍋に作ればいいだけですので可能ですわ。本当はホットプレートがあればもっと美味しくできるのですけれど……」
ホットプレートとは何だろうか。ダチュラに確認してみると、異世界で使っていた魔道具のような物らしい。
卓上焜炉に鉄板を装着させたようなもので、それがあればチーズを保温するのと同時にベーコンや野菜に焼目をつけることができるのでさらに美味しくなるようだ。
フライパンを使ってもいいが、そうなると卓上焜炉がもう一台必要になってしまうので今回は断念したらしい。
「話を聞いた限りでは既製品の応用で作れそうだし、今度カガチと一緒に作ってみるわね」
「お母様、それならたこ焼き用のプレートも一緒に作って付け替えられるようにしていただけると……!」
たこ焼きという物が何なのかは知らないが、カガチに聞けばわかると言われた。
水木の国の料理なのだろうか。ダチュラがここまで必死になるということは美味しいに違いないし、次に国を訪れた時に食べてみるのもいいかもしれない。
「ダチュラちゃんの異世界の話もっと聞きたいなぁ。今うちが着てる服も異世界のデザインなんでしょ?こんなに丈が短いドレス、他の国では売ってないもんねぇ」
「いいですわよ。ただ交換条件というわけではないですけれど、ベラドンナたちの話も聞かせていただけます?私たち、アネモネ様以外の悪魔のことはあまり知らないんですの」
「おっけぇ」
二つ返事で了承したところを見ると、ベラドンナとジギタリスとアネモネの間にはあまり深い縁はないのかもしれない。
少なくとも人に話せないような過去があるわけではないのだろう。そう判断した私は軽い気持ちでベラドンナの話に耳を傾ける。そして。
「うちとジギタリスはね、三百年前にアネモネと一緒に聖女の実験体にされてたんだよぉ」
あっけらかんとした彼女の口から思いがけず重苦しそうなエピソードが飛び出してきて、私は考えを改めることになったのだった。




