01 プロローグ
風呂上がりの肌に香油を塗り、用意されたドレスに袖を通し、藤色の短い髪は艶々に梳かされ、頭に生えた角を磨かれ、産毛を剃った後に侍女の手によって化粧をしてもらう。
愛用の香水をふりかけた後、今は城のバルコニーでデッキチェアへ横になり、ハーブティーを飲みながら爪に色を塗られている。
時折膝に乗せているスライムがぷるぷると震えるので空いている手で優しく撫でてやると、気持ちがいいのか溶けるように形を崩した。
それが私、魔王ミオソティスの休日の光景だ。
今日のドレスはカシュクールデザインのパンツドレスで、袖の部分は肩や二の腕のシルエットを目立たせない花柄のレースになっていた。
ラフな服装なので金属製のアクセサリーは着けていないが、首には袖と同じレース素材のチョーカーが巻かれている。
魔物を統べる王、所謂魔王である私は正装時に威厳を出すために黒や紫を着ることが多いので、休日は好きな色を身に纏うことにしていた。今回は空色だ。
生地は蜘蛛の魔物の中でも上位種のアラクネの糸で織られていて、ドラゴンの炎を浴びても燃えぬほど丈夫なのにまるで何も着ていないかのように軽い。
子供の頃に憧れていたフリルやレース、リボンが散りばめられたボリュームのあるかわいらしいドレスとは違うものの、私に似合うデザインとなっているので仕上がりにはとても満足していた。
魔王の専属服飾士たちは優秀である。
「ママーーーーーーッ!」
優雅な休日を楽しんでいる中、穏やかな空気を震わせるけたたましい叫び声が聞こえたかと思うと、突然一人の魔物の少女が空から舞い降りて――いや猛スピードで急降下してきた。
こちらに衝突するまであと数秒といったところだろうか。
あの勢いでは手入れの行き届いたバルコニーは粉砕されてしまうし、せっかく美しく塗られた私の爪も無事では済まない。
「ミオソティス様っっっ!」
空から少女の叫び声が聞こえたのと同時に、ただでさえ色白の顔面をさらに蒼白にした吸血鬼族の男が私の元へ駆けつける。
普段は礼儀正しい彼がノックもせずに部屋へ入ってくるのは珍しい。よほど焦っているのだろう。
不死である己の肉体を私の盾にしようとする彼を右手で制して、膝のスライムをさっと下ろし左手で風魔法を無詠唱で展開する。
萌黄色の羽根を羽撃かせてあわや城へ激突しそうになっている少女を風で包み込んで勢いを相殺し、ふわりとバルコニーへと下ろした。
「さすがです、ミオソティス様!このっバカ!」
「いたぁ!」
喧嘩をしている魔物――我が子たちを微笑ましく眺めながら、私は自分の爪をちらりと確認する。
どうやらどさくさに紛れて風魔法で急速乾燥させたのが成功したらしく、薄紅色の煌めきが一切崩れていないことに安堵した。
「クレマチス、コリウス、今日の喧嘩の原因は何かしら?」
寂しそうに震えていたスライムを抱き上げ、小首を傾げながら睨み合っている二人に声をかけると拳骨を食らったハーピー族の小麦肌の少女――コリウスが涙目で振り返る。
「聞いてよママ〜バカ眼鏡が〜」
「バカはどちらだ。貴様先ほど自分が何をしでかしたかわかっているのか⁉︎」
「先にバカって言った方がバカなんです〜!バーカバーカバカマチス〜!」
執事服を着て眼鏡をかけた青髪の男――クレマチスが、普段は冷静沈着なのが嘘のようにコリウスの煽りに見事な青筋を立てている。いつものことながら水と油のような二人だ。
お互いの言い分を聞いて整理をしてみると、どうやら専属パティシエが私のために用意していたおやつをコリウスが無断でつまみ食いし、クレマチスに止められても彼女が無視をしたので鉄拳制裁が下ったらしい。
それに拗ねたコリウスが私に慰めてもらおうと飛んできたものの、急ぐあまり勢いがつきすぎてしまったようだ。
要するにほぼ毎日繰り返されているやりとりが今日も起きたというだけのことだ。
「我慢ができなかったり、間違いを犯してしまうことは誰にでも起こりうることだけど……叱られたら止めないといけないわね」
私の言葉を聞いて、元気印のコリウスは萌黄色の羽根を萎ませて大きな瞳をさらに潤ませる。
対してクレマチスは鬼の首を取ったかのように失笑していたので、彼の方にも釘を刺す。
「でも叱る時に体罰はよくないわ。頭を殴って改善されるわけでもないしお互い無駄に痛いだけでしょう」
「……短慮を起こしてしまい申し訳ありません」
魔王の側近である四天王の一人、コリウスはかなりの石頭だ。
おそらく殴られたところで今はもう痛みを忘れているだろうし、同じく四天王のクレマチスは参謀役でありどちらかというと肉体派ではないので、コリウスの頭より彼の拳の方が痛いかもしれない。
それでも殴ってしまったのは、私を大事に思ってくれているが故なのだろう。それは理解している。
コリウスが止められても無視しておやつを食べ続けたのは、どうせ私がおやつを食べたことを怒らないことを知っているから。
現に、自分のおやつを食べてしまったことに対しては私は全く怒っていない。
マナを糧に生きている魔物にとって食事はただの娯楽なので、糖分の摂り過ぎで生活習慣病になることもないし好きなだけ食べてほしい。
しかし私に食べてもらおうと用意された物なのだから献上される前に食べてもいいか確認はするべきだし、正当な理由で注意されたのならどんな些細なことでも止めなくては秩序が保てない。
二人にそのことを丁寧に説明して、少々大袈裟に――さながら悲劇のヒロインのように憂いげに目を伏せながら「私のかわいい子どもたちが言い争うのは悲しいわ」と零すと、二人は見るからに狼狽する。
本当にかわいい子どもたちである。
「バカ……じゃなかった、クレマチス!せーのでごめんなさいしよっ」
「くっなぜ俺が……しかしミオソティス様のお心を煩わせるわけには……」
お互い納得いかない顔をしながらも、私が合図をすると渋々謝って一件落着。
毎度お馴染みの喧嘩の流れなのだがよくもまぁ飽きないものだ。ちなみに、我が子と言っているが私と血が繋がっているわけではない。
とはいえ赤の他人を引き取ったというわけでもなく、錬金術師としての知識を活かして私の魔力を元に命を与えて造った魔物なので我が子と言っていいはずだ。
目の前の二人だけでなく、魔王城が建つこの国に住む魔物のほとんどがそうである。
かつて憧れながらも諦めていた、淑女のような生活に私を母と慕ってくれる愛しい子どもたち。
“男”である私にこんな生活を送れる日が来るなんて、人であった頃は一欠片の想像もしなかったことだ。
そう、今でこそ魔王と呼ばれているが私も昔は人だった。
人でいた頃よりも魔物になってからの方が自分らしい生活を送れているなど、皮肉なものだと私は過去の自分を憫笑した。