86 アトラス降臨
ガドール公爵の書状を届けるために、昼に実家へ着いた。
あの食事から少しだけ眠り、夜中に飛び立った。
もっと早く来れる予定だったけど、たまたま見かけた朝市というものが悪い。
一人だと苦労もなく帰ってこれるのは良いのだが……それほど急ぎという話でもないからと、誘惑に負けてしまう。
実家の庭へ降りて、懐かしさを感じている余裕はなかった。
「今度は何を言われるんだ?」
この書状には多分ろくでもないことが書かれている可能性がある。
俺の気分は怒られるのが分かっているのに、帰らないといけない子供と同じだな。
というか、実家に帰るイコールで怒られるというのがおかしい。
今回に関しては何も怒られる要素がまるでない。それなのにそう感じてしまうのは……日頃の行いのせいだろうか?
「あら、おかえりなさい」
「え……あ、はい。どうも」
「どうかしましたか?」
この綺麗な人は誰なんだろうか?
見た所、何処かのご令嬢だよな……となると、家に誰か来ているという訳だな。
庭を眺めて楽しんでいるようだな。庭師もこんな人に見て貰えれば喜ぶだろう。
「いえ、申し訳ありませんが、私はこれで失礼します」
「お父様でしたら、執務室に居られますわ」
「ありがとうございます。では」
お父様? ああ、この人は付添でここに来ているんだろうな。
ご令嬢を前に、逃げるように玄関へと向かう。
ちょうどいたセドラ達に挨拶を済ませ、父上のいる執務室のドアをノックする。
「アレスです。少しよろしいですか?」
「アレス? いいよ、入りなさい」
部屋の中には、父上と兄上が執務に励んでいるところだった。
兄上もこうしてペンを持っていると、父上の姿とよく似ているな。
俺なら……後ろに執事二人が、鬼のような顔をして立っていることだろう。
「父上。姉上は無事に救出しました」
「アレス、よくやった。それでこそローバン家の、僕の弟だね」
「ありがとう、アレス。フィールからは便りが届いていたからね。元気そうで何よりだ。それで、急にどうしたのかな?」
二人とも俺の帰りが嬉しいというよりも、成果が良かったため機嫌がいいらしい。
こういうやり取りは嫌いではないのだけど。
機嫌がいいのだから、できるだけ怒らせないようにしないとな。
「父上。ガドール公爵から手紙を預かっております。なんでも、今日の朝から出立してこちらへと向かうらしいです」
渡された書状を開き、軽く目を通していた。
父上の顔が険しくなっていないことから、俺が怒られる心配はなさそうだな。
「ふむ。なるほどね……アレス、君はどうするのかな? 怪我のこともあるだろうし、久しぶりに我が家で休養するのはどうかな?」
「そうですね」
休養ね……ガドール公爵はこういう事も見越していたのだろうか?
肩はまだ少しだけ痛みは残っている。毎日ミーアの回復のおかげで、かなり楽になっているが。
完全に治るのはあと数日だろうな。
数日だから、ここでダンジョンに向かえば……俺のことだから遅刻することは想像ができる。
「馬車でゆっくり来るとしたら十日程でしょうか? そうですね、それも良いかもしれません」
「僕の事は気にするな、仕事を付き合えとも言わないから。アレスはゆっくりしているといい」
兄上も今では立派な跡取りだな。
気になるのは、この執務室には、何故か二人しかいないこと。
先程のご令嬢だけがわざわざ庭を見るためにここに来るのはおかしい。
「そうだ、父上。先程、庭に何処かのご令嬢がいらしていたのですが。父上はなにかご存知でしょうか?」
そう言うと何かが壊れるような音が聞こえていた。
音がした方向は兄上からで、手にはペンが潰されていた。机を叩いて立ち上がり、そして、俺を睨みつけている。
「おっと、いけないな。最近少し忙しくてね。耳が悪くなったのかな?」
それを言うのなら目じゃないのだろうかと……兄上は笑っているものの、そんな余計なことは言えない空気へと変わっている。
今の発言の何処に問題があったのか、何も想像ができない。
もしかして、亡霊とかいう話じゃないよな?
「ごめん、アレス。もう一度、言ってくれるかな?」
「ええっと、庭にご令嬢が居たのですが……」
肩に手を置かれ、兄上の笑っている顔が急に怖くなっていた。
それは今までに何度も味わったものであり、決して忘れられない恐怖だった。しかし、理由がわからない……。
「それは何処のご令嬢なのかな?」
「分かりませんが、来客でもあるのでは?」
そう言うと、俺は胸ぐらを掴まれ床に叩き付けられた。
兄上は、倒れた俺を冷たい目で見下ろしていた。そう、かなり怒っていたのだ。
しかし、今の話で怒られる要素が見つからない。あのご令嬢は一体誰なんだ?
もしかして、俺の新しい婚約者とか言わないだろうな?
ミーア達がいるのだからその話は流石にないよな。
「ち、父上。あの、俺。何が問題でしたか?」
「そうだね。よく考えたら良いと思うよ」
父上は呆れた様子で、頬杖をして俺を見下ろしていた。
そんな余裕がないから聞いているんだよ。
一体何がどうなっている?
「失礼します。お茶をお持ちしましたわ」
先程庭にいたご令嬢が、お茶用のワゴンと一緒に入ってきた。
慌てて彼女を指差した。
「あ、さっきの……こ、この人ですよ」
「そうか、アレス。せめてもの情けだ。剣を取れ」
そう言って、兄上は剣を握り締めていた。
何時切りかかってきてもおかしくないこの状況にも関わらず、ご令嬢はお茶をテーブルへと置いていた。
「あなた。そろそろ、よろしいのではなくて?」
「母上? あれ?」
この場において、あなたと呼ぶのは母上しかいないはず。
しかし、この部屋の何処にも母上の姿はなく、確かに女性の声で父上を呼んだ気がしたのだが?
恐怖のあまり幻聴でも聞こえたのか?
「まさか……父上の?」
「アレスは私も怒らせたいのかな?」
そんな訳無いだろう!
でもさっき確かに『あなた』と聞こえた気がする。
お茶を並べ終えて、ご令嬢は小さくため息をついていた。
「お姉ちゃんは少し怒っています」
「は? お姉ちゃん? ええっと。フィール姉上のことですか?」
耳元で剣が突き刺さる音が聞こえた。
顔の真横に兄上の剣が突き刺さっていた。
やばい、殺される……兄上の目は本気だ。
「お仕置きは後にして、ご休憩してください」
「そうだね。ありがとう」
兄上は一変し、出されたお茶に口をつける。
一口含んだだけで、表情はいつもの兄上へと戻っている。
俺としては一体何がなんだか分からなかった。
「アレスも頂くと良い。ただし床でだ」
父上の有り難い慈悲の下、俺もお茶をいただくことにした。
結局こうなるのか……それにしても、兄上の隣りに座っているあのご令嬢は一体?
「は、はい。ありがとうございます」
ここで姿勢を崩せば、更に追い打ちの制裁が来るのを予想して、正座をして、テーブルに置かれたお茶を飲む。
すごく美味しいです。そんな当たり前なことを口にするのはご法度だ。
なぜかって?
そんなのは決まっている。兄上から『当たり前だ』と言われると思うから。
「アレス。彼女の名前は覚えていないのかな?」
「父上は……い、いえ」
ここで余計なことを言えばどうなるか分からない。
兄上は静かにお茶を飲んでいるけど、あれが空になるまでに答えないと、また俺に襲いかかる可能性がある。
「お姉ちゃんです。ふふっ」
お姉ちゃん? 姉上と言ったらフィール姉上。それとも、まさか姉さんだというのか?
そんなはずはない。いくら姉さんだとしても、俺が直也だと分かるはずもない。
だとしたら……お姉ちゃんというのは一体?
「君が八歳の誕生日のこと。よく思い出してごらん?」
「誕生日? しかも八歳? んー?」
カチャという音がして、兄上の鋭い眼光を直視できない。
今のはきっとカップを置いた音だ。
剣はまだ触っていない、ダイジョウブダ……