中空の希望
「私、だめだった」進路指導室から出てきた朱未が哀し気にこちらに話しかけてきた。こうなるだろうと思って待機していたので、予定通りに、指導室から心配そうにちらりと顔を覗かせている教師を一瞥しつつ、彼女を手近な空き教室に連れていく。まだ夏なのだからこれからまた頑張ればいいしこの進路に全てがかかっている訳ではないと説明するべきなのだろうか。それを理解させるにはかなりの労を要しそうである。笑い飛ばすことも性に合わない。ひたすら、同意以外の言葉を言わないように気を遣う。蝉の音と補習終わりの生徒の靴音だけが僕らを包んでいく。
「ママになんていえばいいか、わかんないよ。きっと慰めてくれるし、わたしの好きなもの作って励まそうとしてくれるとおもう、でも」そこから彼女はひたすら泣きじゃくり続けた。なにか言葉を吐き出していたが聞き取れない。そろそろ脱水症状の心配をした方がいいだろう。八月の空き教室は涙を流していない僕にも喉の渇きを呼び起こさせる。
「ごめん、ちょっと喉乾いたんだけど、一緒にジュース買いに行かない?僕のおごりにするから。」彼女の嗚咽がすすり泣き程度になったタイミングで声をかける。ああ、この程度で機嫌が直るのか。目に見えて機嫌の良くなった彼女にすこし苛立ちをおぼえる。
「ほら、立てる?」
「内田の手にはつかまりたくない」さっき俺の制服を涙やら鼻水やらで汚していた人間の吐く言葉とは到底思えない。そんなにすぐに元気になるなら心配するだけ損した、などと残酷な言葉を綴るほど僕は残酷にもなれないので、落書き塗れの机の、彼女が座っている側とは反対側を押さえつけて、机を使って立ち上がっても危険にならない状態にした。世話の焼けるどころの話ではない。立ち上がった朱未が僕の腕に絡みついてくる。
「僕に触りたくないんじゃなかったの?」
「うちだ、ちからよわそう」にへへ、と笑う彼女の顔にデコピンをお見舞いしてやった。人気のない渡り廊下の先で美味くもないコーラを二本買い、荷物を置きっぱなしにしてあった教室に戻ろうと階段をのぼる。
「屋上開いてるかな」
「開いてるわけないだろ」
「かくにんしたい」こうなった彼女は基本的に止めることができない。開いていないことだけ確認できれば彼女も満足できるだろう。もう一階分あがる事になった階段をカツカツとのぼった。
「はい!ここで懺悔します!」そう言って彼女は屋上と書かれたシールの貼ってある鍵を取り出す。
「なるほどな、無断で鍵を持ち出した、と」
「そう!だから、いこっか!」こいつの子供じみた、無邪気を貼り付けたような目には逆らえない。駆け出す彼女を追いつつ、空を見上げる。まあ、悪くはない。
「あとでちゃんと鍵返せよ。」
「じゃあ、それは内田に任せるね、じゃあ」僕に鍵を渡すと、朱未が慣れた手つきでフェンスをよじ登っていく。あっけにとられているうちに彼女は重力に吸い込まれていった。
朱未の母親の謝罪する声とうちの両親の俺に対する叱責が記憶の中をこだましている。全て俺が悪かったんだ。
「もう、許してくれ。」ありきたりなことを喚く警備員を尻目に俺は足を一歩進める。最初から、こうすればよかったんだ。
「うちだ、ありがとね」朱未が笑ったような気がした。
さかさまの重力が、俺を朱未の元へと連れて行った。