◇◆十一話 楓花妃◆◇
小恋が陸兎宮を訪れ、楓花妃の寝室を掃除した後。
彼女と色々と話をしたかった小恋だったが、楓花妃は「これ以上、何も話すことは無い」「掃除、ありがとう。帰ってよいぞ」と言って、寝台に横たわってしまった。
それ以降は何を言っても無反応なので、小恋は仕方なし――陸兎宮内の他の掃除を進めることにした。
とはいえ、宮は広大だ。
一つで、大金持ちのお屋敷一つ分の敷地はあるのである。
小恋一人では、当然手の回るものではない。
しかし、他にやることも無いので、できる限り掃除を進めること――半日。
時は夕刻――普段ならば、一日の業務の終了時間が訪れていた。
「流石、妃の宮、私ひとりじゃ出来る範囲が限られるね」
額の汗を拭う小恋。
しかし、それだけ酷い状態で長い間放置されて来たようだ。
これが宮廷の一角、皇帝の妃が暮らす後宮の宮の一つと言って、誰が信じるだろうか。
お化け屋敷と言った方が納得されるだろう。
「小恋です」
小恋は、楓花妃の寝室に戻る。
扉の前でそう名乗るが、返事は無い。
「開けますよ」とだけ断って、小恋は扉を開けた。
「焼け石に水程度かもしれませんが、掃除をしてきました」
「……まだおったのか」
寝台の上で、楓花妃が寝転がったまま小恋を振り向く。
(……しかし……)
陸兎州の妃、楓花妃。
身形は何とかちゃんとしようとしているが、着付けやら何やら、お付きの者がいない以上手が回っていないのか、やはりみすぼらしい印象を受ける。
さっき片付けた衣服も、汚れや、ところどころ虫食いの穴も空いていた。
服装だけでなく、肌の色も悪い。
見るからに、不健康そうだ。
「他に、専属の宮女はいらっしゃらないんですか?」
「……皆ここには近付かぬ。何名か残っていたが、その者達も出入り禁止にした」
……それじゃあ本当に、この広大な陸兎宮の中で、彼女は独りぼっちという事か。
そりゃ宮は劣化するに決まってる。
そもそも、彼女の言う〝呪い〟とは何なんだ?
何が原因で、この宮から人がいなくなってしまったのだ?
「………」
考えることは多々ある。
だがしかし、今、小恋が何より気に掛けているのは、今にも死んでしまいそうな楓花妃の姿だ。
「……よし、とりあえず、そろそろ晩御飯にしましょう。何か食べたいものはありますか?」
「食べぬ」
たった一言、そう言って、楓花妃はゴロンと小恋に頭を向けた。
「へ? いやいや、どうして。お腹の具合が悪いんですか?」
「食べると、太る」
掠れた、病人のような声で、楓花妃は言う。
「……妃たるもの、もっと美しくあらねばならぬ。そのためには、痩せねば……」
「……楓花妃様は、今おいくつですか?」
「14歳じゃ、それがどうした」
「………」
皇帝の気を引くために、どうすればいいのか。
色々考えて、頑張ろうとしているのだろう。
でも、から回っている。
なんだろう。
やはり、異常だ――この宮も、この妃も。
「この宮は呪われていると聞きましたが……何があったのですか?」
「……知らぬのか?」
「はい。後宮に来たのも最近なので」
「……妾が入宮するのと同じ時くらいからじゃった、この宮で、嘘かまことか……いくつもの怪奇現象が起こりはじめたのじゃ」
楓花妃は語る。
「……それ以来、この宮には妖魔が住み着いていると言われ、宮女も宦官も、恐れて皆逃げてしまった」
ふっ……と、楓花妃は笑う。
どこか、歪んだ笑みだった。
「……最近は、夜になると呼びかけておるのじゃ。妖魔よ、いるなら出て来いと。妾と友達になろうと」
「友達?」
「そうじゃ」
卑屈に笑う。
目が淀んでいる。
「妖魔と友達になり、他の宮にも呪いをかけてやるのじゃ。他の妃達にも同じ目を合わせてやるのじゃ」
「………」
「そうすれば、妾だって……」
瞬間。
小恋は寝台に大股で歩み寄ると、そんな楓花妃の頭を、ぺしんっ! と叩いた。
「ふにっ!」
いきなりの事に、楓花妃は頭を押さえて飛び起きる。
「な、何をするのじゃ無礼者!」
「しょうもない事言ってないで、まずは自分の体の事を考えてください!」
言って、小恋は楓花妃の体を持ち上げる。
「にゃ! にゃにを!」
「嘘みたいに体が軽いと思ったら、その歳でご飯食べないで痩せようなんて自殺行為でしょ! ほら、まずは食事! 空腹だから心が追い詰められて変なこと考えちゃうんですよ!」
「ええい、食べぬ食べぬ! そもそも、この宮の調理場には食材も何もない!」
「まったく……」
パタパタと暴れる楓花妃を、寝台の縁に座らせる。
「ちょっと待っててください」
小恋は陸兎州の調理場へと向かう。
……予想通り、ここも汚い。
しかし、調理場がこんな状態になっているのは、予想していた通りだ。
小恋は昼間の内に、あらかじめ宮の外に出て、いくらかの食材を持ってきておいたのだ。
加えて、倉庫にあった中華鍋とお玉も。
「そんなに手の込んだものは作れないけど、ま、いいでしょ」
小恋は火を熾し、調理を始める――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――しばらくして。
「はい、お待ちどうさまー!」
「ひっ!」
楓花妃の寝室へと戻ってきた小恋。
その両手にお盆を持って、それぞれ料理を乗せている。
「りょ、料理を作ったのか?」
「もらってきたあまり物の食材を使って、鍋でササッと作った程度のものですけどね」
小恋は、卓の上に皿をドンと置く。
「う! ……」
それを見て、楓花妃が思わず声を漏らした。
油で炒められた肉、野菜、卵、そして米。
更に、嫌でも食欲を刺激してくる独特の香ばしいにおい。
「これは……」
「にんにくを使ったチャーハンですよ」
「そ、そんなもの食べるわけにはいかぬ! 絶対に太るではないか!」
慌てて、にんにくチャーハンを視界に入れぬように目を逸らす楓花妃。
「そう言うと思って、余った野菜でスープも作ってきましたよ」
小恋が、楓花妃の前にもう一つ皿を置く。
刻んだ野菜を使った、薄味のスープだ。
「これくらいなら、胃にもやさしいと思いますし」
「ぬぅ……」
「じゃ、いただきまーす」
言うが早いか、小恋は自分の分のチャーハンをレンゲで掬い、「はむっ」と頬張る。
「ん~~! やっぱり一日の労働の後のごはんは格別ですね!」
「………」
楓花妃はゆっくり、野菜のスープをレンゲで掬って口に運ぶ。
「うっ! ……」
おそらく、大したものを食べていなかったからだろう。
久方ぶりに食道を通した温かく美味な味わいに、楓花妃は思わず唸る。
少量のスープは、すぐに飲み干してしまった。
しかし、そのせいで胃が活性化されてしまったのか――楓花妃のお腹がグーグーと、小恋にも聞こえる程の音で鳴り始める。
目の前には、湯気を立てる一人前のにんにくチャーハン。
多分、口の中も涎が止まらない状態だろう。
「あー、おいしいなー、おいしいなー、いいんですか? 楓花妃様。こんなおいしいにんにくチャーハンを目の前にしながら食べられないなんて、世が世ならきっと拷問の類ですよ?」
「うぐぐぐぐ……」
刹那、楓花妃の中の何かが切れた。
レンゲを伸ばし、チャーハンを口の中いっぱいに頬張る。
「う! ……ふぐぅ、お、おいしいのじゃ!」
「でしょでしょ」
空腹に負け、楓花妃はお腹いっぱいチャーハンを食べる。
そして、満腹になったのだろう。
とても満ち足りた顔で、お腹を摩っていた。
「……はっ! し、しまった!」
そこまできて、自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気付く。
「ううう……今までの苦労が水の泡じゃ」
「大丈夫ですよ。明日の朝から早起きして、一緒に運動をして健康的に痩せましょう」
「え?」
疑問符を浮かべる楓花妃。
「あ、そうか」と、そこで小恋は説明する。
「申し訳ありません、説明がまだでしたね。この度、皇帝陛下からの勅命で楓花妃様の身の回りのお世話をすることになりましたので、しばらくはこちらで生活させていただきます」
「……皇帝陛下が」
「そもそも、楓花妃様は今育ちざかりなんですから、下手に食事を抜くとか、そういった方法はやめた方が良いですよ」
「……わかったのじゃ」
満腹になり、心に余裕が出来たのだろう。
楓花妃は、素直にこくりと頷いた。
『ぱんだー!』
するとそこに、雨雨と、あの大きな兎がやって来た。
小恋が、仕事が終わるまでそこらへんで遊んでくるように言ってあったのだ。
「……雪」
兎は、楓花妃の元へ近付いていくと、その手の甲に頬擦りする。
「……空腹と苛立ちでお前を蔑ろにしてしまっていたのに、お前は妾を心配してくれていたのじゃな。それなのに、妾は……」
楓花妃は、兎――雪を持ち上げて、そのもこもこの体毛に顔を埋める。
「……ありがとう、雪」
涙を流し、呟く楓花妃。
きっと、これが彼女の本当の姿。
本当は、無垢で優しい、まだ年端もいかない少女なのだ。
「すまぬな、小恋……ここまでしてくれたのに、失礼な事ばかり」
「いえいえ。確かに大変ですよね。宮に関して変な噂が流されるし、このままじゃ皇帝を迎えられる状態じゃありませんし」
「……妾は、頑張らねばならぬのじゃ」
そこで、楓花妃はすっと表情を押し固める。
「そなた、出身は」
「楓花妃様と同じ、陸兎州です」
「そうか、ではそなたもわかるであろう? 陸兎州は、とても貧しい州じゃ」
小恋は、陸兎州の片田舎の山の中で育った。
だから州全体の事に関してはほとんど知らないが、それでも陸兎州がこの国の中ではあまり良い扱いを受けていないことは知っている。
「妾が皇帝のお気に入りとなって、父上を、民達を……州を救わねばならぬのじゃ」
「……大変な事情ですね」
そんな重い宿命が、この幼い少女の背中に背負わされてしまっている。
小恋は、素直に思う。
些細な事でも、彼女を助けてあげたいと。
「楓花妃様と皇帝陛下が、問題無くお会いになれるように。微力ながら、私もお手伝いいたしますよ」